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アフリカ・カメルーン Semi-Bantu,Cameroon

cameroon0カメルーン地図 左の写真はアフリカ・カメルーン西部のバメンダ高原(グラスフィールド)に住むバンツー系部族の女性と赤ん坊です。1900年代前半、フランス人によって撮影された写真で、母親の乳を吸う赤ん坊の首には立派なシェブロン玉の首飾りが確認できます。バンツー系部族はバミレケ族、バムン族、ティカール族などに分かれますが、バミレケ族のシェブロン玉の首飾りは日本の国立民族学博物館にも収蔵されています。

cameroon_beads.jpg バメンダ高原には首長国が200以上あり、それぞれの国は川筋や尾根道でつながり交易が行われてきたということです。高原の南に位置しギニア湾に面する港町ドゥアラDoualaには、1900年代前半、ベネチアやボヘミアのとんぼ玉を扱う商社『J.F.Sick & Co.』の事務所が開設されており、交易を通してこの高原の部族までシェブロン玉がもたらされたと考えられます。Sick社の拠点から比較的近かったためか、首飾りにシェブロン玉が豊富に使われているのが特徴です。(2007.8.17)

アフリカ・ベルベル人 Berbers,North Africa

北アフリカ地図 左の写真は北アフリカ(エジプト西部の砂漠地帯からモロッコまで)に住むベルベル人(Berbers)のアクセサリーで、ベネチア製のとんぼ玉(シングルモチーフのミルフィオリ)が銀の線条細工(Filigree Work)に組み合わされています。モロッコではエナメルで模様を施した銀細工がベルベル人の装飾として有名ですが、エジプト周辺では銀の線条細工がベルベル人のアクセサリーに使われています。写真の垂飾は先日、エジプト・カイロにあるベルベル人のアンティーク装飾品を扱う店で入手したものです。

berber2.jpg ベルベル人は主にイスラム教を信じる非アラブ系の先住民族です。線条細工は、イスラム教の影響で生き物を模様として表現することを避け、直線や円、らせん、唐草模様といった抽象的な形を作り出すのに向いています。アフリカからヨーロッパやインドへ抜ける貿易路の中継地として栄えたエジプトで金や銀細工の技術が発達し、線条細工も盛んになったということです。 貿易でもたらされたとんぼ玉と、地元の銀細工の技術が融合した興味深い装飾品です。 (2007.9.10)

17世紀のビーズ スペイン船貿易<米・中・フィリピン>

beads-spanish-empire.jpg National Geographic電子版によると、17世紀に世界中から集められた7万点に及ぶビーズがアメリカ・ジョージア州で発掘された。見つかったのは同州のセントキャサリンズ・アイランド。中国フィリピンの首都マニラとの交易でスペイン船が立ち寄る寄港地だった。発見されたビーズは形状や色、大きさ、材質が驚くほど多様であり、17世紀におけるスペイン帝国の勢力範囲がいかに大きかったかを物語っているという。研究チームによってこれまでに発見されたビーズは約130種。種類によっては最大2万点に及ぶ。

 このプロジェクトはアメリカ自然史博物館の支援を受け、現在も調査が続けられている。 同誌によると、アメリカ自然史博物館の考古学研究所長ロラン・ペンドルトン氏は 「イタリアやフランス、オランダといった有名生産地で作られたビーズと一緒に、スペインでもビーズが作られていたことを示す、おそらく初めての証拠も見つかった」と説明している。

<写真のビーズの説明>
上列中央:中国で作られた緑色の芯巻きビーズ。
下列右:波形や玉の装飾が施されたスペイン製の十字型マンガン黒色ガラスビーズ。
上列右:フランス製と考えられる黄緑色の玉で飾られた吹きガラスのビーズ。
上列左から2番目:スペイン製と考えられるカットクリスタルのビーズ。当時のベネチアやフランスで作られていた標準的なクリスタルのビーズと比べて質が劣悪なため、スペイン製と推定される。 (2009.10.4)

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江戸とんぼ玉

 町人が文化の中心となって芸術、娯楽、経済、物流が非常に活発になった江戸時代(1603-1867年)。町人の間では「印籠・巾着」「煙草入れ」「簪・櫛」などの提物(さげもの)や髪飾りが流行し、玉の需要が大きく増加しました。明治時代に書かれた黒川真頼著『工芸志料』(1878年)などによると、徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長年間(1596-1615年)に印籠や巾着を腰につけるのが広まり始め、その後寛文年間(1661-73年)に煙草入れが流行、玉はこれら提物の緒締(おじめ)として需要が急増しました。江戸後期になると、印籠は上級武士や富裕な町人だけではなく広く町民の間でも使われるようになり、文化年間(1804-18)には女性が簪や櫛に玉をつけるのが江戸・大坂・京都の三都をはじめ各地で流行したということです。
 
 玉の材質は水晶、瑪瑙、珊瑚、象牙、貴石、そしてガラスなど多岐にわたり、模様や形も様々な工夫がなされました。庶民があまりにも玉に財産を費やすため、1838年には徳川家慶が櫛や簪、煙草入れなどの翫物に珊瑚玉などを豪華な装飾を施すことを禁じるお触れを出したことが徳川禁令考などの資料からうかがい知ることができます。
 
 江戸時代には、玉の名前が材質や模様によって細かく分類されました。1781年に大阪の古物商・稲葉新右衛門によって書かれた『装剣奇賞』は、同じガラス玉(吹きもの)でも、「筋玉、雁木玉、トンボ玉、印花玉、糸屑玉」などと模様によって区別し、「トンボ玉」を「是も吹きものなり。但、地は虫の巣の如き薬にて色は浅黄萌黄などあり、紋は椰子の紋、又は散り桜のごとき花見えたり」と定義しました。(装劍奇賞の実物は『根付のききて』さんのサイトで見ることができます)

 由水常雄著『トンボ玉』によると、江戸時代にとんぼ玉の製作が最も盛んだったのは大坂で、「今日残っている江戸トンボ玉の大半は大坂の玉造や泉州で作られたものと考えていいであろう」と述べています。大坂の職人は技術も最も優れていたようで、前出の『工芸志料』は「ガンギ玉及びトンボウ玉を模造することは、其の始め大坂の工人某の発明する所に出づるなり」としています。

 江戸時代、国内でガラスが作られるようになったのは長崎が最初だとされています。1573年に肥前大村藩主・大村理専が長崎にオランダ人との貿易港を開設し、その後しばらくしてガラス玉をはじめとするガラス製法が渡来したと思われます。記録としては元和年間(1615-23年)に長崎商人・浜田弥兵衛が国外に渡航し眼鏡製作方法を学び、帰国後に生島藤七にその技法を伝えたことが西川如見著『長崎夜話草』(1720年)に記されています。生島藤七はさらに国内で南蛮人ガラス工からも技術を学び、長崎で念珠・スダレなどをつくり『多麻也(たまや)』と呼ばれるようになったそうです。

 寛永年間(1624-44年)には中国からガラス工が長崎に渡来、ガラス玉の技術を伝えました。『工芸志料』は「長崎の工人、或いは南蛮法に従うものあり、或いは支那法に従う者あり、或いは南蛮法と支那法とを混淆して伝うるも者あり」と説明しています。長崎のガラス製造技術はその後、大坂や江戸に伝えられたということです。

 杉江重誠編『日本ガラス工業史』(1949年)の「第二章 徳川時代のガラス渡来と発達」によると、長崎から大坂にガラス製造が伝えられたのは宝暦年間(1751-64)、長崎商人・播磨屋清兵衛が大坂に移り、北区天神橋筋に工場を設けてカンザシや盃などをつくり始めたのが最初で、同著は「大阪でガラスが製造されたのはこれが最初である」と言い切っています。しかし、1732年に三宅也来によって書かれた『萬金産業袋』には既に「中頃摂州大阪に名人出来、右のとんぼ玉をつくり出せし」という記述があり、播磨屋清兵衛の来坂よりも前にとんぼ玉が大坂で作られていたことが分かります。現在では少なくとも正徳年間(1711-16年)には長崎のガラス製法が江戸や大坂に伝わっていたとされており、さらに大坂のとんぼ玉づくりについては長崎の玉づくりとはルーツを異にするという見方がでています。

 例えば、神功皇后(170-269年)の時代に高麗からガラス玉製法が伝わり、それが明治に到るまで密かに連綿と続けられていた、という説があります。おなじ『日本ガラス工業史』でも「第一四章 その他のガラス工業の発達」では、大坂・泉州のとんぼ玉づくりについて「神功皇后が三韓征伐から帰らるる時、高麗から玉を製作する技術者をつれ帰り、浪速朝廷の地に近い堺市で技法を日本人に伝授せしめたのが、その嚆矢であるといい伝えられている。明治初年頃にもこの地にガラス玉製作の技法が残ってい」たと述べています。この説と一部符合するのが、7世紀後半の奈良・飛鳥池遺跡から見つかったガラス坩堝やガラス玉鋳型で、日本でも古くからガラス玉が生産されていたことが確認できます。

 また、大坂のガラス玉には限定されていませんが、12世紀ごろに中国・宋からガラス製法技術が伝わったとする見方もあります。中山公男監修『世界ガラス工芸史』(2000年)によると、「近世日本のガラス組成は、鉛の含有量が45%程度の、高鉛ガラスである。当時ヨーロッパで作られていたガラスは主としてアルカリ石灰ガラスで系で、原料調合法が日本の物と全く異なっている。金属鉛を溶かし、石粉を附着させ、そののち硝石も加えるというもので、このような製法は、中国宋時代の方法と類似していることから、12世紀頃に中国から伝来し、明治に到るまで秘伝として伝えられたと思われる」と述べています。江戸時代の「トンボ玉」という名称と、中国の乾隆玉に影響を受けたと見られるその意匠から、江戸とんぼ玉と中国との関係は深いとみられ、大坂の江戸とんぼ玉のルーツを中国に求めることは自然だと思われます。

 その他にも、長崎で行われていた玉づくりの製法と、大坂・和泉での玉つくりの方法が大きく異なるという指摘もあります。各務鑛三著『硝子の生長』(1943年)は、昭和初期に泉州・信太村で盛んにされていた玉づくりと、江戸後期の『長崎古今集覧名勝図絵』にある長崎での玉づくりを比較し、長崎の方がオートマチックな設備を採用しており遙かに能率的だとしています。

 いずれにせよ、大坂の玉造や泉州で盛んに作られていたとんぼ玉の起源ははっきりとは分かりませんが、長崎の技術とは異なるルーツを持っていると考えるのが妥当のようです。ガラス研究家のなかには、江戸時代のガラス製造は長崎から始まったという説を否定し、大坂が製造開始の地であるとする見方すら存在しています。

かんざし

kanzashi.jpg 江戸時代から現代まで長い間、女性の結髪の飾りとして愛されてきた簪(かんざし)。シンプルなものから派手に技巧を凝らしたものまで数多く作られてきましたが、ガラスを材料とするものもあり、右の写真のような江戸とんぼ玉を使った「玉かんざし」もその一つです。江戸時代に大阪・堺などでとんぼ玉の生産が盛んになったのは、この玉かんざしのためのとんぼ玉が必要になったのが一因です。多くの種類があるかんざしの中でも、玉かんざしが最も人気があるとされ、現在までずっとすたれることはありませんでした。


kanzashi2.jpg ガラスを材料とするかんざしは、他にも、左の写真のように本体の胴部分がガラスで出来ているものもあります。江戸末期から明治時代にかけて流行しましたが、大正期になると子ども向けのものしか作られなくなり、夜祭りの露店などで売られるようになったということです。ガラス製のかんざしは希少で集めるのが難しく、ある著名なかんざしコレクターは次の様に述べています。

 「私はガラス製を四十本以上所有している。ところが、以前、東京・青山の骨董店でその話をしたところ、店主は『そんなことはあり得ない』とばかりに、相手にしてくれなかった。そこで自宅に戻って、ガラス製のかんざしを写真に撮って送ったら、丁重なわび状が届いた。そのくらい、ガラスのかんざしを集めるのは難しい。」(08年5月23日付日経新聞・村上英太郎「髪飾り 江戸の粋鮮やか」より)

http://blog-imgs-30.fc2.com/b/e/a/bead2/setusro.jpg" alt="setusro.jpg" border="0" align="right"/>">setusro.jpg この2、3年、アンティークのとんぼ玉を使った玉かんざしとして、小野セツローさんの手製のかんざしが注目されています。セツローさんの仕事に注目し、広く世間に紹介した祥見知生さんは著書「セツローさん」に、初めてそのかんざしに出合った時のことを記しています。

 「ギャラリーの扉を開けると、中央にあるテーブルにセツローさんのかんざしが並べられていた。かんざしは、生成りの上質な和紙で作られた袋に一つひとつ入れられていた。縦十七センチ横三・五センチほどの袋にはそれぞれのかんざしの絵と玉の名前が書かれている。たとえば「十六世紀ベネチアガラス」というように。セツローさんご自身の絵であり、字であることはすぐにわかる。ひと目みるなり胸がいっぱいになり、自分でもわけがわからないものがこみ上げてきた。なぜか、涙がこぼれた。」

 この本には製作の様子や作品の写真も掲載されています。実物はなかなか目にする機会が少ないだけに、オススメの1冊です。(2008.6.1)

大阪・泉州のとんぼ玉

 大阪・泉州地域でのとんぼ玉づくり。1949年に大阪で発行された杉江重誠編集『日本ガラス工業史』にはガラス産業の発展の歴史が詳しく記されており、泉州玉・さかとんぼの起源についても次のように説明しています。

  『大阪府の和泉國、今の堺市付近では昔からガラス玉が作られ、泉州玉と呼ばれて有名であった。この泉州玉の由来をたずねると、神功皇后が三韓征伐から帰らるる時、高麗から玉を製作する技術者をつれ帰り、浪速朝廷の地に近い堺市で技法を日本人に伝授せしめたのが、その嚆矢であるといい伝えられている。
 
 明治初年頃にもこの地にガラス玉製作の技法が残っていて、泉喜三郎、柴田寅吉などは専ら神仏装飾用及び念珠玉或いは玉簾などを製作していた。明治10年(1877年)頃この和泉國泉北郡池上村に農を業としていた神山喜代松は、ガラス玉製造の有望なるに着目し、自ら柴田寅吉についてガラス玉の技法を習得し、帰村の上その製造に着手した。その時の製品は全部柴田寅吉に渡して売り捌いていたが、当時としてはその工賃は極めて有利なものであった。この時彼の従弟に当たる藤原政太郎も彼から技術の伝授を受けて製作していたが、諸物価の安い当時片田舎で行われた農村の副業としては甚だ有利な仕事であったので、村民から技術の伝授をせまられ、遂にそれに応じて技術を公開した。これが和泉國にガラス玉製造の発展した元であった。

 当時は交通も不便であったから需要地である京都へ運ぶにも、大阪の天満まで運び八軒家から淀川上りの川舟に積み込み、伏見の浜から京都の問屋へ送り届けたのであった。

 一方、大阪の玉造の地で明治十年頃、小林吉兵衛(明治40年3月11日歿)はタバコ入れの緒締をガラス玉で製造したほか、吉兵衛自ら金型を作り、型ものと呼ばれる押型オモチャも作っていた。さらにその後明治15年(1882年)には我国で始めてガラスで模造宝石を製作した。従って小林吉兵衛は、現代日本のガラス工業の草分けの一人というべきである。そしてその弟子であった加藤達は、明治32年(1899年)の頃ガラスの置物や色ガラスの玉をつけた花針と待針を作った。これがガラス玉付き待ち針の嚆矢であったといわれている。

 このようにして、さきの神山喜代松と小林吉兵衛のガラス技術は、その弟子達を通じて次第にひろまり、ここに和泉國信太村のガラス玉類は、その地の特産品として有名になった。』

 明治時代にこの地域でとんぼ玉がどのように作られていたかは、アイヌ芸術研究者・杉山寿栄男氏が『アイヌたま』に詳述しています。杉山氏は昭和初めごろに「河内国泉北郡葛ノ葉村」でとんぼ玉づくりを実見し、その様子をまとめています。まず、昭和初期に実際に行われていたとんぼ玉の製作方法についての説明です。

 『棚と机を兼ねた如き細工台の箱が置かれて、左方にアルコールランプがありAB二線のゴム菅の下部が石油缶に入り、フイゴの先に竹の棒が結びつけられて、これを足で踏むと、フイゴの空気は石油缶に入って圧搾され、その空気はAから入ってはアルコールランプの火力を強くし、Bに通ずるものは、玉の冷却に使用するように出来ている。

 職人は箱に腰をかけて、この火口に針金の如き細き一尺位の串の棒を鉄火に炙りつつ、一方右手に硝子の材料である一尺位の硝子の棒を火に炙りつつ、左手の鉄串を回転している内に、硝子は溶け始めてこの鉄串に巻きつき、適宜の玉が作り出される。これらの玉を造るには、他に何等道具を使用せず、一定の丸さの玉が炙り出されるので、たまたま丸みの不正の時には、傍に薄い鑢があってそれで修正する。またみかん玉を作る時にも、玉の軟らかい内にこの鑢の薄い刀の面で玉に筋を入れれば、みかん玉状の筋玉が得られるので、このひとつの串に団子の如く幾つも並列されるものである。この鉄串には最初に房州砂(人によっては荒木田土)の如き石粉が塗布されて、この玉が冷却してから、この鉄串から容易に抜き取られる様、この粉が附されるので、よく古い玉の孔口の内に、この白粉が残されてある。これら一つの鉄串に綴られた玉は下部の藁灰の箱に入れられ、玉が冷却してから、この串を抜きとるのである。』

meiji.jpg 明治初年ごろは『大体その製作法は同一であるが、液体燃料使用と固体の炭やコークス燃料の相違は古くは窯の応用となっている。』ということです。
 
 具体的には、(1)のAにガラスの原料を入れて溶かし、(2)のように巻き付け、(3)で形を成型し、(4)のように藁灰で冷却する。(5)で玉を串から抜き取り、鉄串の先に金剛砂をつけて孔口の修正をしたら完成という一連の作業の流れが説明されています。

 (3)のように半球の鉄型で作られたものはアイヌのとんぼ玉の古いものにもあって、両面から張り合わせてようなものはこの型によって作られたものだと考えられるそうです。

《小さな蕾 No.458》 とんぼ玉に誘われて

 2006年9月号の古美術・骨董情報誌『小さな蕾 No.458』にはとんぼ玉が特集されています。ガラス研究家として著名な加藤孝次氏がどのようにとんぼ玉に魅せられていったのかについて記した「とんぼ玉に誘われて」というエッセイと、コレクションの写真が掲載されています。表紙には乾隆玉江戸とんぼ玉などが映っています。また、「江戸とんぼのいろいろ」と題された4ページのコーナーにはガンギ玉や法隆寺玉、筋玉など代表的な江戸時代のとんぼ玉が15種類ほど、写真付きで紹介されています。

 アマゾンから購入することが出来ます。

日本・アイヌ玉 (シトキ・タマサイ) Ainu,Japan

 左の写真は盛装しているアイヌ女性(アイヌメノコ)です。女性の首飾りの中央にある金属製の飾板をシトキといい、転じて飾板のある首飾り全体がシトキと呼ばれています。内側の玉だけのものはタマサイ(玉サイ・玉彩)といい、シトキは重い宗教的儀式に用い、タマサイは盛装した時、あるいは普通の儀式に使われたということです。アイヌ女性にとって玉類はとても大切なもので、祖母から母へ、母から娘に女の魂として代々伝えられ、家の上座にある宝物座の玉手箱などに安置されていたということです。

 首に直接巻き付けられているのはレクトゥンペという飾り布で、金属製飾板が縫いつけられています。レクトゥンペが本来の『首飾り』であって、シトキ・タマサイは『胸飾り』といった方が正確かもしれません。鉢巻きはマタンプシといい、明治の中頃までは男性だけが仕事の時に髪が乱れないように頭に巻いていました。

 シトキは人体に見立てられ、個々の玉に名前があるといいます。心臓にあたる飾板「シトキ」のすぐ上はサパネタマ(親玉、頭玉)、さらに上にいくに従いレクツンタマ(頸玉)、ペンラムタマ(胸玉)、ツマムタマ(胴玉)、テクンタマ(手玉)、ケマウンタマ(足玉)などと呼ばれ、タマサイは中央の大きな玉がヌムンタマ(核玉)、ポロヌムタマ(大核玉)と呼ばれるそうです。
 
 個々の玉の形、大きさ、色、模様は多種多様で、杉山寿栄男著『アイヌたま』は「アイヌの玉の色彩は多種多様であるが、地が浅葱色(あさぎいろ)の玉がもっとも多い。故にアイヌ玉といえば、すぐにこの無地の浅葱色でもって代表させて考えた傾向があるから、従来アイヌ玉は無地玉ばかりであると書かれたものであった」と説明しています。

DSCN59950001.jpg さらに「浅葱色の表面に製作する時の気泡が穴となって表面に所々残ったものを一名「虫の巣玉」と呼ぶ」と解説しています。この虫の巣玉は江戸時代、煙草入の緒締などとしてとても珍重されていたそうで、18世紀前半の本にも「むしの巣、色浅黄色にてすきは通らず。蝦夷にて製す。つくり物なり」と記されています。

 実際には後述のように蝦夷では作られておらず、山丹交易(サンタン交易)でもたらされたものだと思われますが、「つくり物なり」という説明が重要で、かつて松前藩がこの玉を徳川綱吉(在職:1680-1709年)に献上していたところ、生類憐みの令のご時世、本当に虫の巣であったらまずいということで、問題になったことがあるそうです。 

 虫の巣でないことを明らかにするため、松前藩では玉を火に入れて検証したことが18世紀初頭の記録に残っており、この話は1919年に発表された宮本百合子の小説「津軽の虫の巣」の題材にもなっています。

 国立民族学博物館の解説書「ラッコとガラス玉」などによりますと、実際に確認できるアイヌの最も古いガラス玉は、現在新千歳国際空港の滑走路となっている千歳市美々8遺跡のもので、1667年までと、1739年までの地層からガラス玉が30個ほど出土しています。18世紀から19世紀にかけ山丹交易が活発になり、アムール川流域の山丹人の手を経て主に中国製のガラス玉がアイヌの手元に蓄えられ、虫の巣玉などが松前藩などを介して本州にもたらされたということです。

 1800年代以降は江戸や大坂などでとんぼ玉が豊富に生産されてアイヌ社会にもたらされました。現在各地にコレクションとして残されている大玉や派手なとんぼ玉を綴った首飾りの多くは、明治末から大正時代にかけてアイヌ観光の興隆に伴って蓄積されたものだということです。

《民藝 387号》 あいぬ玉 1985.3

mingei.jpg 1985年、日本民藝協会が発行した雑誌『民藝 387号』には「あいぬ玉」が特集されています。アイヌ玉の研究とコレクションで知られる小林泰一氏の文章(著書からの抄約)と、日本民藝館(東京・目黒)と同氏が収集したシトキ・タマサイのコレクションの写真が掲載されており、同年3月まで日本民藝館で開催されていたアイヌ工芸の企画展に対応した特集です。同氏は1940年に札幌の骨董店で小玉2個を購入して以来、アイヌ玉を集め、玉に関する考古学的な文献を購入し研究を重ねてきたということで、アイヌ玉の名称や飾り方、玉に対する土俗信仰など大まかな概要が分かる特集となっています。

 「民藝」というのは思想家の柳宗悦(1889-1961)らが提唱した概念で、柳らはそれまで「下手もの」として美術の対象として評価されることがなかった民衆の日用雑器や雑貨に「民藝美」を見出す民芸運動を展開しました。この運動は1926年(大正15年)、「日本民芸美術館設立趣意書」の発刊により始まったとされていますが、今日まで続いています。民芸運動はアイヌの文化、工芸品を高く評価しており、日本民藝館にはシトキ・タマサイのほか、アイヌの着物や小刀(マキリ)、煙草入れなどが収蔵されています。柳はアイヌの工芸品について「ただ美しいのみならず、立派でさえあり、神秘でさえあり、その創造の力の容易ならざるものを感じる」と絶賛、積極的に蒐集していたということです。

serizawa.jpg 日本民藝館はただ単に「美しさ」という基準で収蔵品を決めていました。無銘の品が多いですが、作家の手による作品も展示しています。柳は「民藝館は、美の殿堂でありたい念願によるのでありまして、その美を民藝美にのみ限っているのではございません。ただ吾々の眼や心を惹きつけた品々の大部分を、後から省みますと、それらが著しく民衆的性質のものであることに気付きました」と説明しています。つまり、美しいものを集めたら、民衆が使う日用雑器や雑貨である「民藝」が集まってしまったので、それを保存する場所を「民藝館」と名付けたに過ぎない、ということです。

 柳の「工藝の道」に感銘を受け、民芸運動に加わった染色工芸家・芹沢介(1895-1984)も自宅の応接間の鴨居からアイヌのシトキをぶら下げて飾っており(写真右上)、民芸運動のなかでアイヌの首飾りが「美しさ」の観点から注目されていたことが分かります。

 一方で、民芸運動が始まったのと同じころ、後に大蔵大臣も務める渋沢敬三(1896-1963)らがつくったアチックミューゼアムの同人が「民具」の研究を行っていました。民芸運動の中で集められたものと同じようなもの(主に陶器類を除く「身辺卑近のモノ」)を収集し研究しましたが、民具研究で重要なのは「美しさ」ではなく、それがどこでどのように使われていたという「生活のあり方」でした。

 国立民族学博物館はアイヌ玉を数多く保管していますが、この博物館の収蔵品の多くはアチックミューゼアムから受け継いだ品々を基礎としています。現在ではアイヌ玉に限らず、台湾のとんぼ玉アフリカのとんぼ玉も数多く所蔵し日本有数のコレクションを形成しています。2001年には特別展「ラッコとガラス玉」を開き、近世の北大西洋におけるガラス玉の流通について学術的な研究成果をまとめ、当時のアイヌの交易世界について考察しています。

 「美しいものを集めて愛でる民芸運動」と「生活のあり方を道具から考察する民具研究(あるいは民俗学)」では大きく異なりますが、20世紀のアイヌ玉収集は大きくこの二つ系譜の中に位置付けることができそうです。(2007.10.3) →アイヌ玉(シトキ・タマサイ)

戦国とんぼ玉  “トンボ玉の女王”  中国河南省・洛陽金村 B.C.5-3c

sengokutonbo1 右の写真は東京国立博物館で展示されている伝中国河南省・洛陽金村出土の戦国とんぼ玉です。戦国玉には様々な意匠がありますが、これほど手の混んだ模様を持つ戦国玉は極めて珍しく、ある著名な美術史家は「中央に七曜文、周りに連珠文区画その外側を菱形円文が並んだ豪華絢爛たる意匠美を持ち、トンボ玉の女王といっても過言ではない。紺地に白、赤褐色の配色美もみごとであり、紺地と白の清楚な印象も捨てがたい」と絶賛しています。洛陽金村の戦国玉が世に知られるようになったのは1930年ごろで、由水常雄氏はその経緯を著書「火の贈りもの」で次のように述べています。

http://blog-imgs-29.fc2.com/b/e/a/bead2/sengokudama2.jpg" alt="sengokudama2.jpg" border="0"align="left" />">sengokudama2.jpg 「1929年頃、河南省の洛陽周辺の地域から、たくさんの美しい出土品が市場にではじめた。当時、河南のキリスト教管区の司教をしていたトロント大学の考古学助教授W・C・ホワイトは、これらの出土品に注目して、その出土地を追跡した。そして、ついにその遺宝の出土場所を探り当てた。そこは現在の洛陽から約20キロメートルほど北東に進んだ地域で、周の古城跡、金村であった。このようにして非公式な形で世に出て来た、これら数々の秀逸なる遺宝の中には、ガラス史上無視することのできない貴重な資料が含まれていたのである。」

 洛陽金村出土の戦国玉について、考古学者の原田淑人氏は1936年、論文で「蜻蛉玉は(中略)西域方面から伝来し、支那内地でも在留外人または一部道人などといわれた種類の人々に依って造られたものと考えられるのである」と玉の由来について自説を述べました。

sengokudama3.jpg この説を裏付けることになったのが、1938年にセリグマン(C.G.Seligman)とベック(H.C.Beck)が発表した論文「極東のガラス、その西方起源」“Far Eastern Glass: Some western origins”です。この論文では、化学分析の結果をもとに、戦国とんぼ玉はエジプトを含む西方より伝来してきたものか、あるいは、中国でそれらを模倣して作られたものか、そのいずれかであると結論づけ、戦国玉の西方起源論を展開しました。

 このセリグマンとベックの論文は、今日に至るまで戦国玉に関する最も基本的な文献とされており、後世のガラス研究家に与えた影響も多大でした。「とんぼ玉」の著者、由水氏もこの論文から受けた衝撃を次のように述べています。

 「私がトンボ玉に興味を持ち始めたのは、今から三十年余り前のこと。シルクロードの興味にとりつかれて、西アジアで作られたガラス製品が、いつ、どのルートをたどって中国や朝鮮、日本にやってきたかを調べ始めた時からであった。中国や日本で出土するトンボ玉と同似のものが、ユーラシア大陸の各地で出土している。それによって、伝播ルートや各地の拡がりがみえてきて、痛快に思っていた矢先のこと。スウェーデンの学会誌に載った、C・G・セリグマン、H・C・ベック『極東のガラス-その西方起源』(ストックホルム、1938)に接して大きなショックを受けた。(中略)私はこの戦国玉に釘付けになり、以来三十年間、トンボ玉を追いつづける運命となった」

 洛陽金村の古墓群から出土したのは戦国玉などガラス製品だけではありませんでした。たとえば、日本屈指の古美術店「壺中居」の創業者、広田不狐斎から細川侯爵家16代・細川護立氏(1883~1970)に渡った鏡「金銀錯狩猟文鏡」も出土品の一つで、これは後に国宝に指定され現在は永青文庫に収められています。

 ホワイト助教授が入手した洛陽金村出土のとんぼ玉の多くは、現在カナダのロイヤル・オンタリオ博物館に収蔵されています。日本では、出土地が明確ではないものの、おそらく洛陽金村出土であろうと伝えられている戦国玉が東京国立博物館のほか、奈良県天理市の天理参考館(下の写真は同館発行の絵葉書)で見ることができます。(2008.10.5)

sengokudama4.jpg

中国・乾隆玉と単色玉

peking glass1 右の写真は1939年当時、北京市内にあったビーズ屋の軒先に掲げられていた看板の一部で、青や水色、白、緑の単色玉が連なっています。中国では14世紀から今日に至るまで、山東省淄博(しはく)市郊外に位置する博山(Boshan)がガラス生産の一大拠点で、中国産のガラス玉の多くはこの博山で作られたと考えられています。清朝(1644-1912)初期に書かれた書物には博山のガラス生産に関する記述があり、鉄や銅、コバルトなどガラスの着色剤について書かれており、後世の研究によると博山で作られた色とりどりの単色玉が広く交易に使われてきたことが分かっています。

 博山ではガラスの原料となる良質の珪石が採れるほか、四方を山に囲まれているため燃料や坩堝の原材料が豊富だったことがガラス産業を支える要因となったと指摘されています。清朝では博山以外にも、広東省広州(Guangzhou)や紫禁城内のガラス工房・玻璃廟(1696年に康熙帝が造営)でガラスが生産されていました。

kenryudama 康熙帝に続く雍正帝(在位:1723-1735)は宝石で作られていた官吏の位階章をガラスで作るよう布告を出しており、さらに続く乾隆帝(在位:1735-1796)の時代にはガラス製造が全盛になり、多くの器や鼻煙壺が残されています。玻璃廟で作られた清朝のガラスは「乾隆ガラス」と呼ばれており、左の枕型のとんぼ玉も18世紀の中国で作られたと推定されているため「乾隆玉」と呼ばれています。

 中国産の単色玉は18~19世紀、アラスカの先住民やアイヌなど北方の交易圏にも大量にもたらされていたことが明らかになっています。看板にも使われている1センチ大の緑色のガラス玉と同様のものが、千島アイヌの首飾りに使われており、ある文献は「この特徴ある緑色のガラス玉はアラスカの南東部の先住民もたくさん持っており、ガラス玉が中国から拡散した壮大なルートと人々のつながりの複雑さとを歴史を示している」と記しています。中国産の単色玉は気泡を多く含み形もまばらで完成度が低いのが特徴です。

 20世紀には北京などの大消費地や、雲南省で暮らす少数民族の間で流通する一方、1920年代にはアメリカにも多くの単色玉が輸出されました。…続く(2007.11.26)

台湾・パイワン族 Paiwan,Taiwan

paiwan.jpg 左の写真は盛装している台湾・パイワン族の女性です。女性の首にはとんぼ玉の首飾りがかけられています。

 かつて高砂族と呼ばれた台湾の原住民は、居住地域や習慣、言語などの違いによってタイヤル(泰雅・アタヤル)族 、アミ(阿美)族、ツォウ(鄒)族 、ブヌン(布農)族、プユマ(卑南)族、ルカイ(魯凱)族、パイワン(排湾)族、ヤミ(雅美)族の9族に大きく分けられました。

 1930年代の日本統治時代に行われた調査などによると、台湾南部の山岳地帯に住むパイワン族のブツル群に属する人々が特にとんぼ玉を珍重していたそうです。パイワン族の至宝は頚飾玉と素焼の小壷で、この小壷に頚飾玉を秘蔵し、屋根裏などの人目にふれない場所に小壷を隠して置いたということです。その価値は、ある村では「首飾りの主玉の値は女頭目一人の生命と同じ」「故意に人を死に至らしめた時には、五粒の首飾り玉を以て償いとする」などと明確に決められていました。

 1920年代に台湾に渡った日本人研究者は、「パイワン族は(17世紀に東インド会社の)オランダ人と接触するはるか前、原始時代からとんぼ玉を持っていた」「台湾でつくられた形跡がなく、香料との交換品としてヨーロッパ・アラビアからもたらされた」「パイワン族のとんぼ玉は中国文化の延長ではなく、熱帯地域の土俗品の延長と見るのが合理的」「後世に中国でガラス玉の製法が発達してからは、補充品として長い間、絶えず輸入していた」などと述べています。

 これらの考察が正しかったのかどうかは、具体的にパイワン族が秘蔵していたとんぼ玉がどのようなものだったのかを検討する必要があります。下のイラストは、台湾大学が収蔵するパイワン族のとんぼ玉コレクションの一部です。

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 イラストから分かるのは、フェニキア玉や、ヴェネチアの玉まで、非常に多岐にわたる玉をパイワン族が所有していたということです。17世紀以前の玉がいつ台湾にもたらされたのかは確定できませんので、上の考察のように「原始時代から持っていた」とは即断できませんが、可能性としては十分ありうることだと思います。また、少なくとも第二次世界大戦以前に台湾でとんぼ玉がつくられていた形跡は見つかっていません。

p5.jpg また、右の写真に見られる玉のように、どこで作られたのかはっきりしない玉があります。この玉はムリムリタン(mulimulitan)と呼ばれ、もっとも貴重な玉としてネックレスでも一番中央に配置されています。

 現在、台湾の原住民がとんぼ玉を製作、販売していますが、その多くはパイワン族が長らく秘蔵してきた玉のうち、玉の起源がはっきりしないムリムリタンのようなものを台湾独自の玉として作っているようです。1970年代初頭から、政府系財団が原住民の経済的格差を解消するために新たな産業を興すことを目的とし、計画的に生産者の育成や工房の支援をおこなってきたということです。

※柳宗悦による台湾のとんぼ玉に対する言及→《民藝 76号》 台湾パイワン族頸飾り 1959.4

《民藝 76号》 台湾パイワン族頸飾り 1959.4

パイワン族「表紙に載せたのは、往年私が渡台の折りに求めた一個で、パイワン族のもの。パイワン族は、台湾の一番南端に住む民族で、台湾全島に住む七種の高砂族のうち、最も優秀な工芸品を持つ種族だと云へる。織物にも非常に美しいものがあるが、装身具にも大したものがある。私はこの種のものに就いての詳しい歴史を知らぬが材料は殆ど皆支那から渡つてきたものだと云はれる。石もあり硝子もあり、珊瑚もあり又貝もあり、練物もあるであらう。それを土人が自らの好みで、形や色や柄の取合せをしたのである。之はもとより頸飾りで、巾広の個所が半月形をなして胸の上に垂れかかる。私の見たパイワン族のアクセサリーの中で、最も美しいものの一個であった。それで私はいたくこの一個に熱心して、旅先で之を買入れるために、内地から電報為替で態々送金して貰つたことを覚えてゐる。取り出して眺める度毎に、「買つておいてよかつた」といつも感深く思ふ程、その美しさが際立つてゐる。トンボ玉を愛する人達には定めし垂涎の一個であろう。玉の数も大変な数にならう。仮に今、これより美しい頸飾りを探さうとして、万金を抱いて巴里の町々を歩き廻つたとしても、さうすぐには見つかるまい。色や形の美しさは、譬へやうもないのである。然るに未開人と呼ばれ、蛮人と蔑まれる人達の作ったものであるから、考えさせられるではないか。之は古作品だが、今の流行の品と雖も之より更に新しく且つ美しいであらうか。」(柳宗悦 『民藝 76号』 1959年)

※とんぼ玉と民芸の関係については→《民藝 387号》 あいぬ玉 1985.3

フィリピン・カリンガ族 Kalinga,Philippines

 左の写真はフィリピン・ルソン島北部の山岳地帯に住むカリンガ族の女性です。細かい模様までは判別できませんが、とんぼ玉のネックレスをしているようです。

 1930年代後半にこの地を探検した研究者によると、台湾のパイワン族のとんぼ玉と非常によく似た玉が使われており、さらに北方に住むイスネグ族も同じような玉を持っているということです。

 カリンガ族の女性が布に施す刺繍や紋様などもパイワン族と共通で、容貌も似ていることが指摘されています。

ボルネオ島・ダヤク族 Dayaks,Borneo

kayans1.jpg 左の写真はボルネオ島・中北部の山岳地帯のジャングルに住むカヤン(Kayan)族の女性です。耳に大きな真鍮製のイヤリングをし、首には何連ものとんぼ玉のネックレスをしています。

 ボルネオ島は赤道直下にある世界で3番目に大きい島で、日本の約2倍の面積があります。北西部の27%がマレーシア領(サラワク・サバ)、そこに囲まれた1%がブルネイ、東部から南西部にかけての72%がインドネシア領(カリマンタン)です。イスラム教徒でもマレー人でもないボルネオの原住民がダヤク(dayaks)族で、ダヤク族はさらに焼畑民族のカヤン族やケンヤ族、狩猟採取民族のプナン族などに分類されます。

 1910年代のボルネオ島の習俗に関する調査によると、カヤン族はボルネオ島の諸民族のなかでも特にとんぼ玉を珍重し、一部の女性は、古いビーズと現代の模倣品を見分ける能力が非常に高いということです。この理由について、戦前にボルネオを探検したある日本の研究者は「遠祖より何百年かの長きにわたって多くの玉を手に入れた経験により、玉の価値を知りえるようになったのであろう」と述べています。

 カヤン族とその周辺の民族には、右下の写真のように様々な種類のとんぼ玉が伝わっています。そのデザインから、主に16世紀以降にヴェネチアやオランダで作られたものだと推測され、様々な時代にアラブや中国の商人がもたらしたものだとされています。

kayans2.jpg それぞれの玉には名前が付けられており、価値も「健康な成人男性の奴隷一人」「水牛一頭」などと明確に決められていて、結婚の儀式に使われることが多かったようです。ネックレスや腰ひもの飾りとして用いられる一方、一つしかない貴重な玉は腕輪に使われることもあったそうです。

 前述の日本の研究者は、台湾のパイワン族が所持する玉と同じような玉をボルネオ島のカヤン族が伝承することなどを踏まえ、「台湾の諸族はボルネオ島に発祥し、パラワン島を経由して呂宋島に渡来したのであろうという見方もある」と紹介しています。確かに、台湾の原住民とカヤン族が使う言語は共にオーストロネシア語族のインドネシア語派に属することが判明していますが、言語学や考古学の今日の知見によると、オーストロネシア語族は台湾からフィリピンやインドネシアに南下したとする説が有力だそうです。

 また、同じくボルネオ島中東部のジャングルに暮らすダヤク族のうち、ケンヤ(Kenya)族も独自のビーズ細工で知られています。カヤン族はもともとカヤン川上流のアポ・カヤン地域の高原に住んでいましたが、1825~50年ごろ、ケンヤ族がこの地域に移住してきました。その後、第二次世界大戦が終わるとケンヤ族はこの地域からマハカム川の下流に移住していきました。

 カヤン族やケンヤ族の代表的なビーズ細工が、農作業中に赤ん坊を背負うための背負子です。背負子の前面にはシードビーズでダヤク族の神であるAsoの模様が編み込まれ、その上には左の写真のような熊の歯とビーズで作られた飾りが付けられ魔除けの役割を果たしていました。

 この飾りはマハカム川下流の都市で入手されたものです。熊の歯の数をすべて足した時、偶数になるのは男の子のための背負子で、奇数は女の子のものだそうです。『Manik-Manik di indonesia』によると、ストライプ模様のとんぼ玉はヴェネチア製、黄色の薄いディスク状のものはボルネオ製、小さな黄色のビーズは中国製で時代は16~17世紀のものということです。

パラオ共和国(ウドウド) Palau

palau.jpg 左の写真は1910年代、日本統治下のパラオで撮影された女性です。首には舟形のウドウド(udoudo)と呼ばれる玉がついたネックレスをしています。ウドウドは、現在でもレプリカがお土産として売られているようですが、本来はパラオ人が伝統的に使用している財貨で、『オセアニアを知る事典』によると、人生儀式のさまざな機会に、夫方集団から妻方集団に贈られるということです。そのため、女性はロレラ・ウドウド(財貨の来る道)といわれるそうです。

 パラオは1885年にスペインの植民地となり、1899年にドイツに売却されました。1914年に第一次世界大戦が始まると日本軍がパラオを占領し、第二次世界大戦の終結まで日本の委任信託領となりました。

 1941年にパラオ・コラールの南洋庁書記として働いていた作家・中島敦は小説の中で、

「ウドウドと称する勾玉の様なものがパラオ地方の貨幣であり、宝である」
「ウドウドも持つてゐない位だから、之によつて始めて購ふことの出来る妻をもてる訳がない」
「パラオ人は珠貨(ウドウド)と饗宴との交換によって結婚式を済ませ」
「莫大な珠貨(ウドウド)を職人達に支払い」

などと書いており、ウドウドがいかにパラオの人々の生活にとって重要な役割を果たしてかをうかがい知ることができます。
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 前著によると、ウドウドは以下のように分類されます。
【材質で分類】
①クルダイツ(陶土製)…a.ブラク(黄色) b.ムンガンガウ(赤色)
②ガラス製…a.多色 b.透明
【形状で分類】
①バハル(舟形)
②玉形、玉子形、その他

 最も高価なのはクルダイツのバハルで、身分の高い女性しか身に着けることができず、現在で6000米ドル以上の価値があるということです。左上の写真の女性が身に着けているのはガラス製のバハルで、右上の写真は、1899~1914年の15年間にドイツ人が本国に持ち帰ったガラス製の玉形のウドウド(とんぼ玉)です。

 これらの玉を展示している博物館の解説によると、玉はフィリピンやインドネシアからもたらされたと考えられ、ジャティム・ビーズや、ボトルから再生した単色の玉などが確認できます。

ミクロネシア連邦(ヤップ島) Yap,Micronesia

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 パラオから約480キロ北東に離れたミクロネシア連邦のヤップ島。マンタが見られるダイビングや、巨大な石の通貨が存在する事で有名ですが、ここにもかつて、右の写真に見られるようなとんぼ玉が流通していました。

 ミクロネシアの歴史はパラオの歴史と大きく重なります。1500年代にスペイン人がミクロネシアの島々に来航し、1886年に領有権を宣言。1899年にスペインは島々をドイツに売却し、1914年に第1次世界大戦が始まると日本が占領し国際連盟から委任統治が認められ、1945年の第2次世界大戦終結まで続きました。

 2001年に発行された国立民族学博物館の解説本によると、ミクロネシアにある16世紀の遺跡からイモガイで作られたビーズの埋葬品が発掘されたということです。同著によると、その後ガラスビーズは導入されましたが「とんぼ玉は導入されなかった」ということです。しかし、1899~1914年までのドイツ統治下で、本国に持ち帰られた現地資料の中に写真に見られるとんぼ玉がついた装飾ベルト(腰ひも)が含まれていました。…続く(2006.7.1)

インド・ナガ族 Nagas,India:Burma

Naga_people_headgears.jpg ナガ族とは、インド東部のナガランド、マニプール、アッサム、及び、ミャンマーの西北部の山岳地帯に暮らすナガ部族の総称で、ナガランドではコヒマを中心とするアンガミ(Angami)族、モコクチュンを中心とするアオ(Ao)族などから構成されています。ナガランドは第二次世界大戦中に日本軍によって実行されたインパール作戦の舞台となった地域で、ナガ族はかつて首狩りの習慣があったことで知られています。

 ナガ族はビーズジュエリーが発達していることも有名で、『History of Beads』によると、貝はベンガル湾、カーネリアンと真鍮製ベルはインドから、ガラス玉はインドとヴェネチアからもたらされたということです。ナガ族が過去、どのようにこれらの素材を手に入れたかは明らかではありませんが、「おそらく交易を支配していたアンガミ族のような特定の部族がもたらしたのではないか」とされています。

 ナガ族が生活する地域は、かつて存在したと言われる西南シルクロードの一部に重なります。

Nagas: Hill Peoples in Northeast India ナガ族の装飾品の解説・図録としては、『The Nagas』が秀逸です。ガラス製の装飾品は、青玉、黄色のディスクビーズ、ヴェネチアのピュマータなどが確認できます。日本語で書かれたナガ族に関する文献としては、1977~78年にインド東部ナガランドを調査した森田勇造による「秘境ナガ高地探検記」があり、王の墓に納められたビーズや装飾品を簡単に説明しています。2002年に中国・成都からミャンマー西北部・インド東部ナガランドを経由してカルカッタまで探検した高野秀行による「西南シルクロードは密林に消える」は、かつて存在した西南シルクロードと現在のナガ族エリアの関連を知ることができます。…続く(2006.6.11)

インドパシフィックビーズ Indo-Pacific Beads

 インドパシフィックビーズとは、右の写真のような『インド洋でつくられた引きガラス方法による単色のビーズ』のことで、インド南東部の遺跡アリカメドゥ(Aricamedu)で紀元前2世紀頃から作られたとされています。

 紀元1世紀の終わりか2世紀の初めごろには、ベトナムのオケオや、スリランカ、マレーシア、タイまで製作技法が伝わり、アリカメドゥの職人が移住したパパナイドゥペトゥ(Papanaidupet)では現在まで2000年以上にわたりこのビーズが作られてきました。色は不透明な赤やオレンジが一般的ですが、黄色や黒、半透明の青などもあります。

 インド洋ではこのビーズが古くから東西交易によって各地に運ばれ、東は日本、韓国、西は東アフリカの遺跡からインドパシフィックビーズが発掘されています。

 このインドパシフィックビーズはしばしば、「季節風ビーズ(Trade Wind Beads)」と呼ばれることがあります。しかし、この言葉は本来、アジアで作られ季節風貿易によって東アフリカに運ばれたビーズを示すもので、石のビーズや芯巻法で作られたとんぼ玉も含んでいます。 

 また、オレンジ色のインドパシフィックビーズがインドネシアのチモールや東ヌサ・トゥンガラ州などで家宝として大切にされていることから、現地の用語である「ムティサラ(Mutisalah、ニセ真珠)」として紹介されることもありますが、「ムティサラ」は実際には引きガラスによって作られたビーズだけでなく、中国製の芯巻ビーズ(Coil Beads)なども含んでいます。

 従って、インドパシフィックビーズという名前は、古代から連綿と作られてきた引きガラス方法のガラスビーズであることに重点を置いた呼び方で、近年、日本でも弥生時代や古墳時代の副葬品として発掘されたガラス玉がインドパシフィックビーズであるという見方が注目されています。・・・続く(2006.10.9)

ジャワ玉(ジャティム・ビーズ)

 ジャティム(Jatim)とはジャワ・ティモール(Java Timur)を縮めた略語で、ジャティム・ビーズとは、主にインドネシアのジャワ島で発掘される独特の模様を持つビーズを指します。多くは、黄・緑・茶などの単色のコアを持ち、表面にカラフルな小円や線模様が施されており、その意匠は西アジアのモザイク芯玉の影響を強く受けているとされています。
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 ジャティム・ビーズの中でも、羽根模様(主に青・白の2色か、青・白・赤・黄の4色)を持ったものは、特にManik pelangi(Rainbow beads、プランギ、右の写真)と呼ばれ、他にもManik itik(Duck Beads)やManik burung(Bird Beads、マニックブルン)などと呼ばれるものがあります。

 これらのジャティム・ビーズは、しばしば「マジャパヒト・ビーズ(Majapahit beads)」と称されることもありますが、『MANIK-MANIK di Indonesia (BEADS in Indonesia)』によると、この名称は骨董商が親しみやすく分かりやすい名前をつけただけで、実際には13-16世紀に栄えたマジャパヒト王国の遺跡からは一切見つかっていないということです。「マジャパヒト・ビーズ」の名称はL.S.Dubinによって『History of Beads』の中で紹介されたため(例えば巻末のビーズ年表903番など)、誤って広まってしまったということです。

 『Manik-』によると、ジャティム・ビーズは発掘調査の結果などから、300年ごろから製作が開始され遅くとも900年ごろまでにジャワ島東部で作られ、現在、発掘されるのもこの地域にかたよっているということです。・・・続く(2006.4.17)
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【とんぼ玉とビーズの世界史】
人類最古のビーズ(10~9万年前 )  古代エジプト・隕石のビーズ(B.C.3000年頃)   宝貝のビーズ(B.C.1000年頃~)   17世紀のとんぼ玉   20世紀のとんぼ玉

【重層貼眼玉】  
フェニキア玉   ケルト玉  ペルセポリス型  イラン・ガレクティ1号丘5号墓  ペルシアの瑠璃玉

【古代ローマ】
労働者のビーズ  壺型とんぼ玉  帯状モザイク玉

【ヨーロッパ・アフリカのとんぼ玉】
ベネチア玉  エチオピアンチェリー  ロシアンブルー  キッファビーズ  カメルーン  ベルベル人

【日本・中国のとんぼ玉】
江戸とんぼ玉  かんざし  和泉蜻蛉玉(大阪)  アイヌ玉(シトキ・タマサイ)  《民藝 387号》  戦国とんぼ玉  乾隆玉と単色玉

【アジア・オセアニアの諸民族】
台湾・パイワン族(排灣族)  《民藝 76号》  ボルネオ島・ダヤク族  パラオ共和国(ウドウド)  ミクロネシア連邦(ヤップ島)  インド・ナガ族

【アジアのとんぼ玉】
インド・バラナシ  インドパシフィックビーズ  ジャワ・ジャティムビーズ  ニューギニアビーズ

【東南アジアの遺跡】
タイ・バンチェン  ベトナム・サーフィン  ベトナム・オケオ  ラオス・ジャール平原

【コレクション】
芹沢銈介コレクション  平山郁夫コレクション  川田順造コレクション  とんぼ玉美術博物館コレクション
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