17世紀のビーズ スペイン船貿易<米・中・フィリピン>

beads-spanish-empire.jpg National Geographic電子版によると、17世紀に世界中から集められた7万点に及ぶビーズがアメリカ・ジョージア州で発掘された。見つかったのは同州のセントキャサリンズ・アイランド。中国フィリピンの首都マニラとの交易でスペイン船が立ち寄る寄港地だった。発見されたビーズは形状や色、大きさ、材質が驚くほど多様であり、17世紀におけるスペイン帝国の勢力範囲がいかに大きかったかを物語っているという。研究チームによってこれまでに発見されたビーズは約130種。種類によっては最大2万点に及ぶ。

 このプロジェクトはアメリカ自然史博物館の支援を受け、現在も調査が続けられている。 同誌によると、アメリカ自然史博物館の考古学研究所長ロラン・ペンドルトン氏は 「イタリアやフランス、オランダといった有名生産地で作られたビーズと一緒に、スペインでもビーズが作られていたことを示す、おそらく初めての証拠も見つかった」と説明している。

<写真のビーズの説明>
上列中央:中国で作られた緑色の芯巻きビーズ。
下列右:波形や玉の装飾が施されたスペイン製の十字型マンガン黒色ガラスビーズ。
上列右:フランス製と考えられる黄緑色の玉で飾られた吹きガラスのビーズ。
上列左から2番目:スペイン製と考えられるカットクリスタルのビーズ。当時のベネチアやフランスで作られていた標準的なクリスタルのビーズと比べて質が劣悪なため、スペイン製と推定される。 (2009.10.4)

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江戸とんぼ玉

 町人が文化の中心となって芸術、娯楽、経済、物流が非常に活発になった江戸時代(1603-1867年)。町人の間では「印籠・巾着」「煙草入れ」「簪・櫛」などの提物(さげもの)や髪飾りが流行し、玉の需要が大きく増加しました。明治時代に書かれた黒川真頼著『工芸志料』(1878年)などによると、徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長年間(1596-1615年)に印籠や巾着を腰につけるのが広まり始め、その後寛文年間(1661-73年)に煙草入れが流行、玉はこれら提物の緒締(おじめ)として需要が急増しました。江戸後期になると、印籠は上級武士や富裕な町人だけではなく広く町民の間でも使われるようになり、文化年間(1804-18)には女性が簪や櫛に玉をつけるのが江戸・大坂・京都の三都をはじめ各地で流行したということです。
 
 玉の材質は水晶、瑪瑙、珊瑚、象牙、貴石、そしてガラスなど多岐にわたり、模様や形も様々な工夫がなされました。庶民があまりにも玉に財産を費やすため、1838年には徳川家慶が櫛や簪、煙草入れなどの翫物に珊瑚玉などを豪華な装飾を施すことを禁じるお触れを出したことが徳川禁令考などの資料からうかがい知ることができます。
 
 江戸時代には、玉の名前が材質や模様によって細かく分類されました。1781年に大阪の古物商・稲葉新右衛門によって書かれた『装剣奇賞』は、同じガラス玉(吹きもの)でも、「筋玉、雁木玉、トンボ玉、印花玉、糸屑玉」などと模様によって区別し、「トンボ玉」を「是も吹きものなり。但、地は虫の巣の如き薬にて色は浅黄萌黄などあり、紋は椰子の紋、又は散り桜のごとき花見えたり」と定義しました。(装劍奇賞の実物は『根付のききて』さんのサイトで見ることができます)

 由水常雄著『トンボ玉』によると、江戸時代にとんぼ玉の製作が最も盛んだったのは大坂で、「今日残っている江戸トンボ玉の大半は大坂の玉造や泉州で作られたものと考えていいであろう」と述べています。大坂の職人は技術も最も優れていたようで、前出の『工芸志料』は「ガンギ玉及びトンボウ玉を模造することは、其の始め大坂の工人某の発明する所に出づるなり」としています。

 江戸時代、国内でガラスが作られるようになったのは長崎が最初だとされています。1573年に肥前大村藩主・大村理専が長崎にオランダ人との貿易港を開設し、その後しばらくしてガラス玉をはじめとするガラス製法が渡来したと思われます。記録としては元和年間(1615-23年)に長崎商人・浜田弥兵衛が国外に渡航し眼鏡製作方法を学び、帰国後に生島藤七にその技法を伝えたことが西川如見著『長崎夜話草』(1720年)に記されています。生島藤七はさらに国内で南蛮人ガラス工からも技術を学び、長崎で念珠・スダレなどをつくり『多麻也(たまや)』と呼ばれるようになったそうです。

 寛永年間(1624-44年)には中国からガラス工が長崎に渡来、ガラス玉の技術を伝えました。『工芸志料』は「長崎の工人、或いは南蛮法に従うものあり、或いは支那法に従う者あり、或いは南蛮法と支那法とを混淆して伝うるも者あり」と説明しています。長崎のガラス製造技術はその後、大坂や江戸に伝えられたということです。

 杉江重誠編『日本ガラス工業史』(1949年)の「第二章 徳川時代のガラス渡来と発達」によると、長崎から大坂にガラス製造が伝えられたのは宝暦年間(1751-64)、長崎商人・播磨屋清兵衛が大坂に移り、北区天神橋筋に工場を設けてカンザシや盃などをつくり始めたのが最初で、同著は「大阪でガラスが製造されたのはこれが最初である」と言い切っています。しかし、1732年に三宅也来によって書かれた『萬金産業袋』には既に「中頃摂州大阪に名人出来、右のとんぼ玉をつくり出せし」という記述があり、播磨屋清兵衛の来坂よりも前にとんぼ玉が大坂で作られていたことが分かります。現在では少なくとも正徳年間(1711-16年)には長崎のガラス製法が江戸や大坂に伝わっていたとされており、さらに大坂のとんぼ玉づくりについては長崎の玉づくりとはルーツを異にするという見方がでています。

 例えば、神功皇后(170-269年)の時代に高麗からガラス玉製法が伝わり、それが明治に到るまで密かに連綿と続けられていた、という説があります。おなじ『日本ガラス工業史』でも「第一四章 その他のガラス工業の発達」では、大坂・泉州のとんぼ玉づくりについて「神功皇后が三韓征伐から帰らるる時、高麗から玉を製作する技術者をつれ帰り、浪速朝廷の地に近い堺市で技法を日本人に伝授せしめたのが、その嚆矢であるといい伝えられている。明治初年頃にもこの地にガラス玉製作の技法が残ってい」たと述べています。この説と一部符合するのが、7世紀後半の奈良・飛鳥池遺跡から見つかったガラス坩堝やガラス玉鋳型で、日本でも古くからガラス玉が生産されていたことが確認できます。

 また、大坂のガラス玉には限定されていませんが、12世紀ごろに中国・宋からガラス製法技術が伝わったとする見方もあります。中山公男監修『世界ガラス工芸史』(2000年)によると、「近世日本のガラス組成は、鉛の含有量が45%程度の、高鉛ガラスである。当時ヨーロッパで作られていたガラスは主としてアルカリ石灰ガラスで系で、原料調合法が日本の物と全く異なっている。金属鉛を溶かし、石粉を附着させ、そののち硝石も加えるというもので、このような製法は、中国宋時代の方法と類似していることから、12世紀頃に中国から伝来し、明治に到るまで秘伝として伝えられたと思われる」と述べています。江戸時代の「トンボ玉」という名称と、中国の乾隆玉に影響を受けたと見られるその意匠から、江戸とんぼ玉と中国との関係は深いとみられ、大坂の江戸とんぼ玉のルーツを中国に求めることは自然だと思われます。

 その他にも、長崎で行われていた玉づくりの製法と、大坂・和泉での玉つくりの方法が大きく異なるという指摘もあります。各務鑛三著『硝子の生長』(1943年)は、昭和初期に泉州・信太村で盛んにされていた玉づくりと、江戸後期の『長崎古今集覧名勝図絵』にある長崎での玉づくりを比較し、長崎の方がオートマチックな設備を採用しており遙かに能率的だとしています。

 いずれにせよ、大坂の玉造や泉州で盛んに作られていたとんぼ玉の起源ははっきりとは分かりませんが、長崎の技術とは異なるルーツを持っていると考えるのが妥当のようです。ガラス研究家のなかには、江戸時代のガラス製造は長崎から始まったという説を否定し、大坂が製造開始の地であるとする見方すら存在しています。

かんざし

kanzashi.jpg 江戸時代から現代まで長い間、女性の結髪の飾りとして愛されてきた簪(かんざし)。シンプルなものから派手に技巧を凝らしたものまで数多く作られてきましたが、ガラスを材料とするものもあり、右の写真のような江戸とんぼ玉を使った「玉かんざし」もその一つです。江戸時代に大阪・堺などでとんぼ玉の生産が盛んになったのは、この玉かんざしのためのとんぼ玉が必要になったのが一因です。多くの種類があるかんざしの中でも、玉かんざしが最も人気があるとされ、現在までずっとすたれることはありませんでした。


kanzashi2.jpg ガラスを材料とするかんざしは、他にも、左の写真のように本体の胴部分がガラスで出来ているものもあります。江戸末期から明治時代にかけて流行しましたが、大正期になると子ども向けのものしか作られなくなり、夜祭りの露店などで売られるようになったということです。ガラス製のかんざしは希少で集めるのが難しく、ある著名なかんざしコレクターは次の様に述べています。

 「私はガラス製を四十本以上所有している。ところが、以前、東京・青山の骨董店でその話をしたところ、店主は『そんなことはあり得ない』とばかりに、相手にしてくれなかった。そこで自宅に戻って、ガラス製のかんざしを写真に撮って送ったら、丁重なわび状が届いた。そのくらい、ガラスのかんざしを集めるのは難しい。」(08年5月23日付日経新聞・村上英太郎「髪飾り 江戸の粋鮮やか」より)

http://blog-imgs-30.fc2.com/b/e/a/bead2/setusro.jpg" alt="setusro.jpg" border="0" align="right"/>">setusro.jpg この2、3年、アンティークのとんぼ玉を使った玉かんざしとして、小野セツローさんの手製のかんざしが注目されています。セツローさんの仕事に注目し、広く世間に紹介した祥見知生さんは著書「セツローさん」に、初めてそのかんざしに出合った時のことを記しています。

 「ギャラリーの扉を開けると、中央にあるテーブルにセツローさんのかんざしが並べられていた。かんざしは、生成りの上質な和紙で作られた袋に一つひとつ入れられていた。縦十七センチ横三・五センチほどの袋にはそれぞれのかんざしの絵と玉の名前が書かれている。たとえば「十六世紀ベネチアガラス」というように。セツローさんご自身の絵であり、字であることはすぐにわかる。ひと目みるなり胸がいっぱいになり、自分でもわけがわからないものがこみ上げてきた。なぜか、涙がこぼれた。」

 この本には製作の様子や作品の写真も掲載されています。実物はなかなか目にする機会が少ないだけに、オススメの1冊です。(2008.6.1)

大阪・泉州のとんぼ玉

 大阪・泉州地域でのとんぼ玉づくり。1949年に大阪で発行された杉江重誠編集『日本ガラス工業史』にはガラス産業の発展の歴史が詳しく記されており、泉州玉・さかとんぼの起源についても次のように説明しています。

  『大阪府の和泉國、今の堺市付近では昔からガラス玉が作られ、泉州玉と呼ばれて有名であった。この泉州玉の由来をたずねると、神功皇后が三韓征伐から帰らるる時、高麗から玉を製作する技術者をつれ帰り、浪速朝廷の地に近い堺市で技法を日本人に伝授せしめたのが、その嚆矢であるといい伝えられている。
 
 明治初年頃にもこの地にガラス玉製作の技法が残っていて、泉喜三郎、柴田寅吉などは専ら神仏装飾用及び念珠玉或いは玉簾などを製作していた。明治10年(1877年)頃この和泉國泉北郡池上村に農を業としていた神山喜代松は、ガラス玉製造の有望なるに着目し、自ら柴田寅吉についてガラス玉の技法を習得し、帰村の上その製造に着手した。その時の製品は全部柴田寅吉に渡して売り捌いていたが、当時としてはその工賃は極めて有利なものであった。この時彼の従弟に当たる藤原政太郎も彼から技術の伝授を受けて製作していたが、諸物価の安い当時片田舎で行われた農村の副業としては甚だ有利な仕事であったので、村民から技術の伝授をせまられ、遂にそれに応じて技術を公開した。これが和泉國にガラス玉製造の発展した元であった。

 当時は交通も不便であったから需要地である京都へ運ぶにも、大阪の天満まで運び八軒家から淀川上りの川舟に積み込み、伏見の浜から京都の問屋へ送り届けたのであった。

 一方、大阪の玉造の地で明治十年頃、小林吉兵衛(明治40年3月11日歿)はタバコ入れの緒締をガラス玉で製造したほか、吉兵衛自ら金型を作り、型ものと呼ばれる押型オモチャも作っていた。さらにその後明治15年(1882年)には我国で始めてガラスで模造宝石を製作した。従って小林吉兵衛は、現代日本のガラス工業の草分けの一人というべきである。そしてその弟子であった加藤達は、明治32年(1899年)の頃ガラスの置物や色ガラスの玉をつけた花針と待針を作った。これがガラス玉付き待ち針の嚆矢であったといわれている。

 このようにして、さきの神山喜代松と小林吉兵衛のガラス技術は、その弟子達を通じて次第にひろまり、ここに和泉國信太村のガラス玉類は、その地の特産品として有名になった。』

 明治時代にこの地域でとんぼ玉がどのように作られていたかは、アイヌ芸術研究者・杉山寿栄男氏が『アイヌたま』に詳述しています。杉山氏は昭和初めごろに「河内国泉北郡葛ノ葉村」でとんぼ玉づくりを実見し、その様子をまとめています。まず、昭和初期に実際に行われていたとんぼ玉の製作方法についての説明です。

 『棚と机を兼ねた如き細工台の箱が置かれて、左方にアルコールランプがありAB二線のゴム菅の下部が石油缶に入り、フイゴの先に竹の棒が結びつけられて、これを足で踏むと、フイゴの空気は石油缶に入って圧搾され、その空気はAから入ってはアルコールランプの火力を強くし、Bに通ずるものは、玉の冷却に使用するように出来ている。

 職人は箱に腰をかけて、この火口に針金の如き細き一尺位の串の棒を鉄火に炙りつつ、一方右手に硝子の材料である一尺位の硝子の棒を火に炙りつつ、左手の鉄串を回転している内に、硝子は溶け始めてこの鉄串に巻きつき、適宜の玉が作り出される。これらの玉を造るには、他に何等道具を使用せず、一定の丸さの玉が炙り出されるので、たまたま丸みの不正の時には、傍に薄い鑢があってそれで修正する。またみかん玉を作る時にも、玉の軟らかい内にこの鑢の薄い刀の面で玉に筋を入れれば、みかん玉状の筋玉が得られるので、このひとつの串に団子の如く幾つも並列されるものである。この鉄串には最初に房州砂(人によっては荒木田土)の如き石粉が塗布されて、この玉が冷却してから、この鉄串から容易に抜き取られる様、この粉が附されるので、よく古い玉の孔口の内に、この白粉が残されてある。これら一つの鉄串に綴られた玉は下部の藁灰の箱に入れられ、玉が冷却してから、この串を抜きとるのである。』

meiji.jpg 明治初年ごろは『大体その製作法は同一であるが、液体燃料使用と固体の炭やコークス燃料の相違は古くは窯の応用となっている。』ということです。
 
 具体的には、(1)のAにガラスの原料を入れて溶かし、(2)のように巻き付け、(3)で形を成型し、(4)のように藁灰で冷却する。(5)で玉を串から抜き取り、鉄串の先に金剛砂をつけて孔口の修正をしたら完成という一連の作業の流れが説明されています。

 (3)のように半球の鉄型で作られたものはアイヌのとんぼ玉の古いものにもあって、両面から張り合わせてようなものはこの型によって作られたものだと考えられるそうです。

《小さな蕾 No.458》 とんぼ玉に誘われて

 2006年9月号の古美術・骨董情報誌『小さな蕾 No.458』にはとんぼ玉が特集されています。ガラス研究家として著名な加藤孝次氏がどのようにとんぼ玉に魅せられていったのかについて記した「とんぼ玉に誘われて」というエッセイと、コレクションの写真が掲載されています。表紙には乾隆玉江戸とんぼ玉などが映っています。また、「江戸とんぼのいろいろ」と題された4ページのコーナーにはガンギ玉や法隆寺玉、筋玉など代表的な江戸時代のとんぼ玉が15種類ほど、写真付きで紹介されています。

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【とんぼ玉とビーズの世界史】
人類最古のビーズ(10~9万年前 )  古代エジプト・隕石のビーズ(B.C.3000年頃)   宝貝のビーズ(B.C.1000年頃~)   17世紀のとんぼ玉   20世紀のとんぼ玉

【重層貼眼玉】  
フェニキア玉   ケルト玉  ペルセポリス型  イラン・ガレクティ1号丘5号墓  ペルシアの瑠璃玉

【古代ローマ】
労働者のビーズ  壺型とんぼ玉  帯状モザイク玉

【ヨーロッパ・アフリカのとんぼ玉】
ベネチア玉  エチオピアンチェリー  ロシアンブルー  キッファビーズ  カメルーン  ベルベル人

【日本・中国のとんぼ玉】
江戸とんぼ玉  かんざし  和泉蜻蛉玉(大阪)  アイヌ玉(シトキ・タマサイ)  《民藝 387号》  戦国とんぼ玉  乾隆玉と単色玉

【アジア・オセアニアの諸民族】
台湾・パイワン族(排灣族)  《民藝 76号》  ボルネオ島・ダヤク族  パラオ共和国(ウドウド)  ミクロネシア連邦(ヤップ島)  インド・ナガ族

【アジアのとんぼ玉】
インド・バラナシ  インドパシフィックビーズ  ジャワ・ジャティムビーズ  ニューギニアビーズ

【東南アジアの遺跡】
タイ・バンチェン  ベトナム・サーフィン  ベトナム・オケオ  ラオス・ジャール平原

【コレクション】
芹沢銈介コレクション  平山郁夫コレクション  川田順造コレクション  とんぼ玉美術博物館コレクション
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