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日本・アイヌ玉 (シトキ・タマサイ) Ainu,Japan

 左の写真は盛装しているアイヌ女性(アイヌメノコ)です。女性の首飾りの中央にある金属製の飾板をシトキといい、転じて飾板のある首飾り全体がシトキと呼ばれています。内側の玉だけのものはタマサイ(玉サイ・玉彩)といい、シトキは重い宗教的儀式に用い、タマサイは盛装した時、あるいは普通の儀式に使われたということです。アイヌ女性にとって玉類はとても大切なもので、祖母から母へ、母から娘に女の魂として代々伝えられ、家の上座にある宝物座の玉手箱などに安置されていたということです。

 首に直接巻き付けられているのはレクトゥンペという飾り布で、金属製飾板が縫いつけられています。レクトゥンペが本来の『首飾り』であって、シトキ・タマサイは『胸飾り』といった方が正確かもしれません。鉢巻きはマタンプシといい、明治の中頃までは男性だけが仕事の時に髪が乱れないように頭に巻いていました。

 シトキは人体に見立てられ、個々の玉に名前があるといいます。心臓にあたる飾板「シトキ」のすぐ上はサパネタマ(親玉、頭玉)、さらに上にいくに従いレクツンタマ(頸玉)、ペンラムタマ(胸玉)、ツマムタマ(胴玉)、テクンタマ(手玉)、ケマウンタマ(足玉)などと呼ばれ、タマサイは中央の大きな玉がヌムンタマ(核玉)、ポロヌムタマ(大核玉)と呼ばれるそうです。
 
 個々の玉の形、大きさ、色、模様は多種多様で、杉山寿栄男著『アイヌたま』は「アイヌの玉の色彩は多種多様であるが、地が浅葱色(あさぎいろ)の玉がもっとも多い。故にアイヌ玉といえば、すぐにこの無地の浅葱色でもって代表させて考えた傾向があるから、従来アイヌ玉は無地玉ばかりであると書かれたものであった」と説明しています。

DSCN59950001.jpg さらに「浅葱色の表面に製作する時の気泡が穴となって表面に所々残ったものを一名「虫の巣玉」と呼ぶ」と解説しています。この虫の巣玉は江戸時代、煙草入の緒締などとしてとても珍重されていたそうで、18世紀前半の本にも「むしの巣、色浅黄色にてすきは通らず。蝦夷にて製す。つくり物なり」と記されています。

 実際には後述のように蝦夷では作られておらず、山丹交易(サンタン交易)でもたらされたものだと思われますが、「つくり物なり」という説明が重要で、かつて松前藩がこの玉を徳川綱吉(在職:1680-1709年)に献上していたところ、生類憐みの令のご時世、本当に虫の巣であったらまずいということで、問題になったことがあるそうです。 

 虫の巣でないことを明らかにするため、松前藩では玉を火に入れて検証したことが18世紀初頭の記録に残っており、この話は1919年に発表された宮本百合子の小説「津軽の虫の巣」の題材にもなっています。

 国立民族学博物館の解説書「ラッコとガラス玉」などによりますと、実際に確認できるアイヌの最も古いガラス玉は、現在新千歳国際空港の滑走路となっている千歳市美々8遺跡のもので、1667年までと、1739年までの地層からガラス玉が30個ほど出土しています。18世紀から19世紀にかけ山丹交易が活発になり、アムール川流域の山丹人の手を経て主に中国製のガラス玉がアイヌの手元に蓄えられ、虫の巣玉などが松前藩などを介して本州にもたらされたということです。

 1800年代以降は江戸や大坂などでとんぼ玉が豊富に生産されてアイヌ社会にもたらされました。現在各地にコレクションとして残されている大玉や派手なとんぼ玉を綴った首飾りの多くは、明治末から大正時代にかけてアイヌ観光の興隆に伴って蓄積されたものだということです。
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《民藝 387号》 あいぬ玉 1985.3

mingei.jpg 1985年、日本民藝協会が発行した雑誌『民藝 387号』には「あいぬ玉」が特集されています。アイヌ玉の研究とコレクションで知られる小林泰一氏の文章(著書からの抄約)と、日本民藝館(東京・目黒)と同氏が収集したシトキ・タマサイのコレクションの写真が掲載されており、同年3月まで日本民藝館で開催されていたアイヌ工芸の企画展に対応した特集です。同氏は1940年に札幌の骨董店で小玉2個を購入して以来、アイヌ玉を集め、玉に関する考古学的な文献を購入し研究を重ねてきたということで、アイヌ玉の名称や飾り方、玉に対する土俗信仰など大まかな概要が分かる特集となっています。

 「民藝」というのは思想家の柳宗悦(1889-1961)らが提唱した概念で、柳らはそれまで「下手もの」として美術の対象として評価されることがなかった民衆の日用雑器や雑貨に「民藝美」を見出す民芸運動を展開しました。この運動は1926年(大正15年)、「日本民芸美術館設立趣意書」の発刊により始まったとされていますが、今日まで続いています。民芸運動はアイヌの文化、工芸品を高く評価しており、日本民藝館にはシトキ・タマサイのほか、アイヌの着物や小刀(マキリ)、煙草入れなどが収蔵されています。柳はアイヌの工芸品について「ただ美しいのみならず、立派でさえあり、神秘でさえあり、その創造の力の容易ならざるものを感じる」と絶賛、積極的に蒐集していたということです。

serizawa.jpg 日本民藝館はただ単に「美しさ」という基準で収蔵品を決めていました。無銘の品が多いですが、作家の手による作品も展示しています。柳は「民藝館は、美の殿堂でありたい念願によるのでありまして、その美を民藝美にのみ限っているのではございません。ただ吾々の眼や心を惹きつけた品々の大部分を、後から省みますと、それらが著しく民衆的性質のものであることに気付きました」と説明しています。つまり、美しいものを集めたら、民衆が使う日用雑器や雑貨である「民藝」が集まってしまったので、それを保存する場所を「民藝館」と名付けたに過ぎない、ということです。

 柳の「工藝の道」に感銘を受け、民芸運動に加わった染色工芸家・芹沢介(1895-1984)も自宅の応接間の鴨居からアイヌのシトキをぶら下げて飾っており(写真右上)、民芸運動のなかでアイヌの首飾りが「美しさ」の観点から注目されていたことが分かります。

 一方で、民芸運動が始まったのと同じころ、後に大蔵大臣も務める渋沢敬三(1896-1963)らがつくったアチックミューゼアムの同人が「民具」の研究を行っていました。民芸運動の中で集められたものと同じようなもの(主に陶器類を除く「身辺卑近のモノ」)を収集し研究しましたが、民具研究で重要なのは「美しさ」ではなく、それがどこでどのように使われていたという「生活のあり方」でした。

 国立民族学博物館はアイヌ玉を数多く保管していますが、この博物館の収蔵品の多くはアチックミューゼアムから受け継いだ品々を基礎としています。現在ではアイヌ玉に限らず、台湾のとんぼ玉アフリカのとんぼ玉も数多く所蔵し日本有数のコレクションを形成しています。2001年には特別展「ラッコとガラス玉」を開き、近世の北大西洋におけるガラス玉の流通について学術的な研究成果をまとめ、当時のアイヌの交易世界について考察しています。

 「美しいものを集めて愛でる民芸運動」と「生活のあり方を道具から考察する民具研究(あるいは民俗学)」では大きく異なりますが、20世紀のアイヌ玉収集は大きくこの二つ系譜の中に位置付けることができそうです。(2007.10.3) →アイヌ玉(シトキ・タマサイ)

戦国とんぼ玉  “トンボ玉の女王”  中国河南省・洛陽金村 B.C.5-3c

sengokutonbo1 右の写真は東京国立博物館で展示されている伝中国河南省・洛陽金村出土の戦国とんぼ玉です。戦国玉には様々な意匠がありますが、これほど手の混んだ模様を持つ戦国玉は極めて珍しく、ある著名な美術史家は「中央に七曜文、周りに連珠文区画その外側を菱形円文が並んだ豪華絢爛たる意匠美を持ち、トンボ玉の女王といっても過言ではない。紺地に白、赤褐色の配色美もみごとであり、紺地と白の清楚な印象も捨てがたい」と絶賛しています。洛陽金村の戦国玉が世に知られるようになったのは1930年ごろで、由水常雄氏はその経緯を著書「火の贈りもの」で次のように述べています。

http://blog-imgs-29.fc2.com/b/e/a/bead2/sengokudama2.jpg" alt="sengokudama2.jpg" border="0"align="left" />">sengokudama2.jpg 「1929年頃、河南省の洛陽周辺の地域から、たくさんの美しい出土品が市場にではじめた。当時、河南のキリスト教管区の司教をしていたトロント大学の考古学助教授W・C・ホワイトは、これらの出土品に注目して、その出土地を追跡した。そして、ついにその遺宝の出土場所を探り当てた。そこは現在の洛陽から約20キロメートルほど北東に進んだ地域で、周の古城跡、金村であった。このようにして非公式な形で世に出て来た、これら数々の秀逸なる遺宝の中には、ガラス史上無視することのできない貴重な資料が含まれていたのである。」

 洛陽金村出土の戦国玉について、考古学者の原田淑人氏は1936年、論文で「蜻蛉玉は(中略)西域方面から伝来し、支那内地でも在留外人または一部道人などといわれた種類の人々に依って造られたものと考えられるのである」と玉の由来について自説を述べました。

sengokudama3.jpg この説を裏付けることになったのが、1938年にセリグマン(C.G.Seligman)とベック(H.C.Beck)が発表した論文「極東のガラス、その西方起源」“Far Eastern Glass: Some western origins”です。この論文では、化学分析の結果をもとに、戦国とんぼ玉はエジプトを含む西方より伝来してきたものか、あるいは、中国でそれらを模倣して作られたものか、そのいずれかであると結論づけ、戦国玉の西方起源論を展開しました。

 このセリグマンとベックの論文は、今日に至るまで戦国玉に関する最も基本的な文献とされており、後世のガラス研究家に与えた影響も多大でした。「とんぼ玉」の著者、由水氏もこの論文から受けた衝撃を次のように述べています。

 「私がトンボ玉に興味を持ち始めたのは、今から三十年余り前のこと。シルクロードの興味にとりつかれて、西アジアで作られたガラス製品が、いつ、どのルートをたどって中国や朝鮮、日本にやってきたかを調べ始めた時からであった。中国や日本で出土するトンボ玉と同似のものが、ユーラシア大陸の各地で出土している。それによって、伝播ルートや各地の拡がりがみえてきて、痛快に思っていた矢先のこと。スウェーデンの学会誌に載った、C・G・セリグマン、H・C・ベック『極東のガラス-その西方起源』(ストックホルム、1938)に接して大きなショックを受けた。(中略)私はこの戦国玉に釘付けになり、以来三十年間、トンボ玉を追いつづける運命となった」

 洛陽金村の古墓群から出土したのは戦国玉などガラス製品だけではありませんでした。たとえば、日本屈指の古美術店「壺中居」の創業者、広田不狐斎から細川侯爵家16代・細川護立氏(1883~1970)に渡った鏡「金銀錯狩猟文鏡」も出土品の一つで、これは後に国宝に指定され現在は永青文庫に収められています。

 ホワイト助教授が入手した洛陽金村出土のとんぼ玉の多くは、現在カナダのロイヤル・オンタリオ博物館に収蔵されています。日本では、出土地が明確ではないものの、おそらく洛陽金村出土であろうと伝えられている戦国玉が東京国立博物館のほか、奈良県天理市の天理参考館(下の写真は同館発行の絵葉書)で見ることができます。(2008.10.5)

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中国・乾隆玉と単色玉

peking glass1 右の写真は1939年当時、北京市内にあったビーズ屋の軒先に掲げられていた看板の一部で、青や水色、白、緑の単色玉が連なっています。中国では14世紀から今日に至るまで、山東省淄博(しはく)市郊外に位置する博山(Boshan)がガラス生産の一大拠点で、中国産のガラス玉の多くはこの博山で作られたと考えられています。清朝(1644-1912)初期に書かれた書物には博山のガラス生産に関する記述があり、鉄や銅、コバルトなどガラスの着色剤について書かれており、後世の研究によると博山で作られた色とりどりの単色玉が広く交易に使われてきたことが分かっています。

 博山ではガラスの原料となる良質の珪石が採れるほか、四方を山に囲まれているため燃料や坩堝の原材料が豊富だったことがガラス産業を支える要因となったと指摘されています。清朝では博山以外にも、広東省広州(Guangzhou)や紫禁城内のガラス工房・玻璃廟(1696年に康熙帝が造営)でガラスが生産されていました。

kenryudama 康熙帝に続く雍正帝(在位:1723-1735)は宝石で作られていた官吏の位階章をガラスで作るよう布告を出しており、さらに続く乾隆帝(在位:1735-1796)の時代にはガラス製造が全盛になり、多くの器や鼻煙壺が残されています。玻璃廟で作られた清朝のガラスは「乾隆ガラス」と呼ばれており、左の枕型のとんぼ玉も18世紀の中国で作られたと推定されているため「乾隆玉」と呼ばれています。

 中国産の単色玉は18~19世紀、アラスカの先住民やアイヌなど北方の交易圏にも大量にもたらされていたことが明らかになっています。看板にも使われている1センチ大の緑色のガラス玉と同様のものが、千島アイヌの首飾りに使われており、ある文献は「この特徴ある緑色のガラス玉はアラスカの南東部の先住民もたくさん持っており、ガラス玉が中国から拡散した壮大なルートと人々のつながりの複雑さとを歴史を示している」と記しています。中国産の単色玉は気泡を多く含み形もまばらで完成度が低いのが特徴です。

 20世紀には北京などの大消費地や、雲南省で暮らす少数民族の間で流通する一方、1920年代にはアメリカにも多くの単色玉が輸出されました。…続く(2007.11.26)

台湾・パイワン族 Paiwan,Taiwan

paiwan.jpg 左の写真は盛装している台湾・パイワン族の女性です。女性の首にはとんぼ玉の首飾りがかけられています。

 かつて高砂族と呼ばれた台湾の原住民は、居住地域や習慣、言語などの違いによってタイヤル(泰雅・アタヤル)族 、アミ(阿美)族、ツォウ(鄒)族 、ブヌン(布農)族、プユマ(卑南)族、ルカイ(魯凱)族、パイワン(排湾)族、ヤミ(雅美)族の9族に大きく分けられました。

 1930年代の日本統治時代に行われた調査などによると、台湾南部の山岳地帯に住むパイワン族のブツル群に属する人々が特にとんぼ玉を珍重していたそうです。パイワン族の至宝は頚飾玉と素焼の小壷で、この小壷に頚飾玉を秘蔵し、屋根裏などの人目にふれない場所に小壷を隠して置いたということです。その価値は、ある村では「首飾りの主玉の値は女頭目一人の生命と同じ」「故意に人を死に至らしめた時には、五粒の首飾り玉を以て償いとする」などと明確に決められていました。

 1920年代に台湾に渡った日本人研究者は、「パイワン族は(17世紀に東インド会社の)オランダ人と接触するはるか前、原始時代からとんぼ玉を持っていた」「台湾でつくられた形跡がなく、香料との交換品としてヨーロッパ・アラビアからもたらされた」「パイワン族のとんぼ玉は中国文化の延長ではなく、熱帯地域の土俗品の延長と見るのが合理的」「後世に中国でガラス玉の製法が発達してからは、補充品として長い間、絶えず輸入していた」などと述べています。

 これらの考察が正しかったのかどうかは、具体的にパイワン族が秘蔵していたとんぼ玉がどのようなものだったのかを検討する必要があります。下のイラストは、台湾大学が収蔵するパイワン族のとんぼ玉コレクションの一部です。

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 イラストから分かるのは、フェニキア玉や、ヴェネチアの玉まで、非常に多岐にわたる玉をパイワン族が所有していたということです。17世紀以前の玉がいつ台湾にもたらされたのかは確定できませんので、上の考察のように「原始時代から持っていた」とは即断できませんが、可能性としては十分ありうることだと思います。また、少なくとも第二次世界大戦以前に台湾でとんぼ玉がつくられていた形跡は見つかっていません。

p5.jpg また、右の写真に見られる玉のように、どこで作られたのかはっきりしない玉があります。この玉はムリムリタン(mulimulitan)と呼ばれ、もっとも貴重な玉としてネックレスでも一番中央に配置されています。

 現在、台湾の原住民がとんぼ玉を製作、販売していますが、その多くはパイワン族が長らく秘蔵してきた玉のうち、玉の起源がはっきりしないムリムリタンのようなものを台湾独自の玉として作っているようです。1970年代初頭から、政府系財団が原住民の経済的格差を解消するために新たな産業を興すことを目的とし、計画的に生産者の育成や工房の支援をおこなってきたということです。

※柳宗悦による台湾のとんぼ玉に対する言及→《民藝 76号》 台湾パイワン族頸飾り 1959.4

《民藝 76号》 台湾パイワン族頸飾り 1959.4

パイワン族「表紙に載せたのは、往年私が渡台の折りに求めた一個で、パイワン族のもの。パイワン族は、台湾の一番南端に住む民族で、台湾全島に住む七種の高砂族のうち、最も優秀な工芸品を持つ種族だと云へる。織物にも非常に美しいものがあるが、装身具にも大したものがある。私はこの種のものに就いての詳しい歴史を知らぬが材料は殆ど皆支那から渡つてきたものだと云はれる。石もあり硝子もあり、珊瑚もあり又貝もあり、練物もあるであらう。それを土人が自らの好みで、形や色や柄の取合せをしたのである。之はもとより頸飾りで、巾広の個所が半月形をなして胸の上に垂れかかる。私の見たパイワン族のアクセサリーの中で、最も美しいものの一個であった。それで私はいたくこの一個に熱心して、旅先で之を買入れるために、内地から電報為替で態々送金して貰つたことを覚えてゐる。取り出して眺める度毎に、「買つておいてよかつた」といつも感深く思ふ程、その美しさが際立つてゐる。トンボ玉を愛する人達には定めし垂涎の一個であろう。玉の数も大変な数にならう。仮に今、これより美しい頸飾りを探さうとして、万金を抱いて巴里の町々を歩き廻つたとしても、さうすぐには見つかるまい。色や形の美しさは、譬へやうもないのである。然るに未開人と呼ばれ、蛮人と蔑まれる人達の作ったものであるから、考えさせられるではないか。之は古作品だが、今の流行の品と雖も之より更に新しく且つ美しいであらうか。」(柳宗悦 『民藝 76号』 1959年)

※とんぼ玉と民芸の関係については→《民藝 387号》 あいぬ玉 1985.3

フィリピン・カリンガ族 Kalinga,Philippines

 左の写真はフィリピン・ルソン島北部の山岳地帯に住むカリンガ族の女性です。細かい模様までは判別できませんが、とんぼ玉のネックレスをしているようです。

 1930年代後半にこの地を探検した研究者によると、台湾のパイワン族のとんぼ玉と非常によく似た玉が使われており、さらに北方に住むイスネグ族も同じような玉を持っているということです。

 カリンガ族の女性が布に施す刺繍や紋様などもパイワン族と共通で、容貌も似ていることが指摘されています。

ボルネオ島・ダヤク族 Dayaks,Borneo

kayans1.jpg 左の写真はボルネオ島・中北部の山岳地帯のジャングルに住むカヤン(Kayan)族の女性です。耳に大きな真鍮製のイヤリングをし、首には何連ものとんぼ玉のネックレスをしています。

 ボルネオ島は赤道直下にある世界で3番目に大きい島で、日本の約2倍の面積があります。北西部の27%がマレーシア領(サラワク・サバ)、そこに囲まれた1%がブルネイ、東部から南西部にかけての72%がインドネシア領(カリマンタン)です。イスラム教徒でもマレー人でもないボルネオの原住民がダヤク(dayaks)族で、ダヤク族はさらに焼畑民族のカヤン族やケンヤ族、狩猟採取民族のプナン族などに分類されます。

 1910年代のボルネオ島の習俗に関する調査によると、カヤン族はボルネオ島の諸民族のなかでも特にとんぼ玉を珍重し、一部の女性は、古いビーズと現代の模倣品を見分ける能力が非常に高いということです。この理由について、戦前にボルネオを探検したある日本の研究者は「遠祖より何百年かの長きにわたって多くの玉を手に入れた経験により、玉の価値を知りえるようになったのであろう」と述べています。

 カヤン族とその周辺の民族には、右下の写真のように様々な種類のとんぼ玉が伝わっています。そのデザインから、主に16世紀以降にヴェネチアやオランダで作られたものだと推測され、様々な時代にアラブや中国の商人がもたらしたものだとされています。

kayans2.jpg それぞれの玉には名前が付けられており、価値も「健康な成人男性の奴隷一人」「水牛一頭」などと明確に決められていて、結婚の儀式に使われることが多かったようです。ネックレスや腰ひもの飾りとして用いられる一方、一つしかない貴重な玉は腕輪に使われることもあったそうです。

 前述の日本の研究者は、台湾のパイワン族が所持する玉と同じような玉をボルネオ島のカヤン族が伝承することなどを踏まえ、「台湾の諸族はボルネオ島に発祥し、パラワン島を経由して呂宋島に渡来したのであろうという見方もある」と紹介しています。確かに、台湾の原住民とカヤン族が使う言語は共にオーストロネシア語族のインドネシア語派に属することが判明していますが、言語学や考古学の今日の知見によると、オーストロネシア語族は台湾からフィリピンやインドネシアに南下したとする説が有力だそうです。

 また、同じくボルネオ島中東部のジャングルに暮らすダヤク族のうち、ケンヤ(Kenya)族も独自のビーズ細工で知られています。カヤン族はもともとカヤン川上流のアポ・カヤン地域の高原に住んでいましたが、1825~50年ごろ、ケンヤ族がこの地域に移住してきました。その後、第二次世界大戦が終わるとケンヤ族はこの地域からマハカム川の下流に移住していきました。

 カヤン族やケンヤ族の代表的なビーズ細工が、農作業中に赤ん坊を背負うための背負子です。背負子の前面にはシードビーズでダヤク族の神であるAsoの模様が編み込まれ、その上には左の写真のような熊の歯とビーズで作られた飾りが付けられ魔除けの役割を果たしていました。

 この飾りはマハカム川下流の都市で入手されたものです。熊の歯の数をすべて足した時、偶数になるのは男の子のための背負子で、奇数は女の子のものだそうです。『Manik-Manik di indonesia』によると、ストライプ模様のとんぼ玉はヴェネチア製、黄色の薄いディスク状のものはボルネオ製、小さな黄色のビーズは中国製で時代は16~17世紀のものということです。

パラオ共和国(ウドウド) Palau

palau.jpg 左の写真は1910年代、日本統治下のパラオで撮影された女性です。首には舟形のウドウド(udoudo)と呼ばれる玉がついたネックレスをしています。ウドウドは、現在でもレプリカがお土産として売られているようですが、本来はパラオ人が伝統的に使用している財貨で、『オセアニアを知る事典』によると、人生儀式のさまざな機会に、夫方集団から妻方集団に贈られるということです。そのため、女性はロレラ・ウドウド(財貨の来る道)といわれるそうです。

 パラオは1885年にスペインの植民地となり、1899年にドイツに売却されました。1914年に第一次世界大戦が始まると日本軍がパラオを占領し、第二次世界大戦の終結まで日本の委任信託領となりました。

 1941年にパラオ・コラールの南洋庁書記として働いていた作家・中島敦は小説の中で、

「ウドウドと称する勾玉の様なものがパラオ地方の貨幣であり、宝である」
「ウドウドも持つてゐない位だから、之によつて始めて購ふことの出来る妻をもてる訳がない」
「パラオ人は珠貨(ウドウド)と饗宴との交換によって結婚式を済ませ」
「莫大な珠貨(ウドウド)を職人達に支払い」

などと書いており、ウドウドがいかにパラオの人々の生活にとって重要な役割を果たしてかをうかがい知ることができます。
palau3s.jpg
 前著によると、ウドウドは以下のように分類されます。
【材質で分類】
①クルダイツ(陶土製)…a.ブラク(黄色) b.ムンガンガウ(赤色)
②ガラス製…a.多色 b.透明
【形状で分類】
①バハル(舟形)
②玉形、玉子形、その他

 最も高価なのはクルダイツのバハルで、身分の高い女性しか身に着けることができず、現在で6000米ドル以上の価値があるということです。左上の写真の女性が身に着けているのはガラス製のバハルで、右上の写真は、1899~1914年の15年間にドイツ人が本国に持ち帰ったガラス製の玉形のウドウド(とんぼ玉)です。

 これらの玉を展示している博物館の解説によると、玉はフィリピンやインドネシアからもたらされたと考えられ、ジャティム・ビーズや、ボトルから再生した単色の玉などが確認できます。

ミクロネシア連邦(ヤップ島) Yap,Micronesia

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 パラオから約480キロ北東に離れたミクロネシア連邦のヤップ島。マンタが見られるダイビングや、巨大な石の通貨が存在する事で有名ですが、ここにもかつて、右の写真に見られるようなとんぼ玉が流通していました。

 ミクロネシアの歴史はパラオの歴史と大きく重なります。1500年代にスペイン人がミクロネシアの島々に来航し、1886年に領有権を宣言。1899年にスペインは島々をドイツに売却し、1914年に第1次世界大戦が始まると日本が占領し国際連盟から委任統治が認められ、1945年の第2次世界大戦終結まで続きました。

 2001年に発行された国立民族学博物館の解説本によると、ミクロネシアにある16世紀の遺跡からイモガイで作られたビーズの埋葬品が発掘されたということです。同著によると、その後ガラスビーズは導入されましたが「とんぼ玉は導入されなかった」ということです。しかし、1899~1914年までのドイツ統治下で、本国に持ち帰られた現地資料の中に写真に見られるとんぼ玉がついた装飾ベルト(腰ひも)が含まれていました。…続く(2006.7.1)

インド・ナガ族 Nagas,India:Burma

Naga_people_headgears.jpg ナガ族とは、インド東部のナガランド、マニプール、アッサム、及び、ミャンマーの西北部の山岳地帯に暮らすナガ部族の総称で、ナガランドではコヒマを中心とするアンガミ(Angami)族、モコクチュンを中心とするアオ(Ao)族などから構成されています。ナガランドは第二次世界大戦中に日本軍によって実行されたインパール作戦の舞台となった地域で、ナガ族はかつて首狩りの習慣があったことで知られています。

 ナガ族はビーズジュエリーが発達していることも有名で、『History of Beads』によると、貝はベンガル湾、カーネリアンと真鍮製ベルはインドから、ガラス玉はインドとヴェネチアからもたらされたということです。ナガ族が過去、どのようにこれらの素材を手に入れたかは明らかではありませんが、「おそらく交易を支配していたアンガミ族のような特定の部族がもたらしたのではないか」とされています。

 ナガ族が生活する地域は、かつて存在したと言われる西南シルクロードの一部に重なります。

Nagas: Hill Peoples in Northeast India ナガ族の装飾品の解説・図録としては、『The Nagas』が秀逸です。ガラス製の装飾品は、青玉、黄色のディスクビーズ、ヴェネチアのピュマータなどが確認できます。日本語で書かれたナガ族に関する文献としては、1977~78年にインド東部ナガランドを調査した森田勇造による「秘境ナガ高地探検記」があり、王の墓に納められたビーズや装飾品を簡単に説明しています。2002年に中国・成都からミャンマー西北部・インド東部ナガランドを経由してカルカッタまで探検した高野秀行による「西南シルクロードは密林に消える」は、かつて存在した西南シルクロードと現在のナガ族エリアの関連を知ることができます。…続く(2006.6.11)

インドパシフィックビーズ Indo-Pacific Beads

 インドパシフィックビーズとは、右の写真のような『インド洋でつくられた引きガラス方法による単色のビーズ』のことで、インド南東部の遺跡アリカメドゥ(Aricamedu)で紀元前2世紀頃から作られたとされています。

 紀元1世紀の終わりか2世紀の初めごろには、ベトナムのオケオや、スリランカ、マレーシア、タイまで製作技法が伝わり、アリカメドゥの職人が移住したパパナイドゥペトゥ(Papanaidupet)では現在まで2000年以上にわたりこのビーズが作られてきました。色は不透明な赤やオレンジが一般的ですが、黄色や黒、半透明の青などもあります。

 インド洋ではこのビーズが古くから東西交易によって各地に運ばれ、東は日本、韓国、西は東アフリカの遺跡からインドパシフィックビーズが発掘されています。

 このインドパシフィックビーズはしばしば、「季節風ビーズ(Trade Wind Beads)」と呼ばれることがあります。しかし、この言葉は本来、アジアで作られ季節風貿易によって東アフリカに運ばれたビーズを示すもので、石のビーズや芯巻法で作られたとんぼ玉も含んでいます。 

 また、オレンジ色のインドパシフィックビーズがインドネシアのチモールや東ヌサ・トゥンガラ州などで家宝として大切にされていることから、現地の用語である「ムティサラ(Mutisalah、ニセ真珠)」として紹介されることもありますが、「ムティサラ」は実際には引きガラスによって作られたビーズだけでなく、中国製の芯巻ビーズ(Coil Beads)なども含んでいます。

 従って、インドパシフィックビーズという名前は、古代から連綿と作られてきた引きガラス方法のガラスビーズであることに重点を置いた呼び方で、近年、日本でも弥生時代や古墳時代の副葬品として発掘されたガラス玉がインドパシフィックビーズであるという見方が注目されています。・・・続く(2006.10.9)

ジャワ玉(ジャティム・ビーズ)

 ジャティム(Jatim)とはジャワ・ティモール(Java Timur)を縮めた略語で、ジャティム・ビーズとは、主にインドネシアのジャワ島で発掘される独特の模様を持つビーズを指します。多くは、黄・緑・茶などの単色のコアを持ち、表面にカラフルな小円や線模様が施されており、その意匠は西アジアのモザイク芯玉の影響を強く受けているとされています。
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 ジャティム・ビーズの中でも、羽根模様(主に青・白の2色か、青・白・赤・黄の4色)を持ったものは、特にManik pelangi(Rainbow beads、プランギ、右の写真)と呼ばれ、他にもManik itik(Duck Beads)やManik burung(Bird Beads、マニックブルン)などと呼ばれるものがあります。

 これらのジャティム・ビーズは、しばしば「マジャパヒト・ビーズ(Majapahit beads)」と称されることもありますが、『MANIK-MANIK di Indonesia (BEADS in Indonesia)』によると、この名称は骨董商が親しみやすく分かりやすい名前をつけただけで、実際には13-16世紀に栄えたマジャパヒト王国の遺跡からは一切見つかっていないということです。「マジャパヒト・ビーズ」の名称はL.S.Dubinによって『History of Beads』の中で紹介されたため(例えば巻末のビーズ年表903番など)、誤って広まってしまったということです。

 『Manik-』によると、ジャティム・ビーズは発掘調査の結果などから、300年ごろから製作が開始され遅くとも900年ごろまでにジャワ島東部で作られ、現在、発掘されるのもこの地域にかたよっているということです。・・・続く(2006.4.17)

ニューギニア玉(New Guinea beads)

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 右の写真は、ニューギニア島西部、インドネシア・パプア州(かつてのイリアンジャヤ州)に伝わるとんぼ玉です。不透明な黄色のメロン玉で、ずっしりとした重さがあります。

『Manic-Manic di indonesia』や『Collectible Beads』によると、おそらく17~19世紀に中国で作られこの島までもたらされたということですが、中国ではこの玉はほとんど発見されておらず、製作地についての正確な情報はありません。 乾隆ガラスの伝世品と質感が似ており、時代的、距離的にも近いため中国製と推測されているようです。

 結婚の際に使われたとされており、ある貨幣コレクターはニューギニア島の北西岸にあるチェンドラワシ(ヘールフィンク)湾地域や北岸のフンボルト湾地域でこの玉を大量に収集したということです。(2007.5.5)

【東南アジア(大陸部の遺跡)】

 インドシナとは、インドと中国に挟まれているベトナム・ラオス・カンボジアの3カ国に加え、タイ・ミャンマー両国のマレー半島部分を除く地域で、この半島にあるバンチェン(タイ)・ジャール平原(ラオス)・サーフィン(ベトナム中東部)・オケオ(ベトナム南部)などの古代遺跡から、多くのガラス玉・とんぼ玉が見つかりました。

 1960年ごろから本格的に調査されたバンチェン遺跡及びその周辺の遺跡からはインドパシフィックビーズに加え、この地域独特の「バンチェン・ビーズ」と呼ばれる半透明の濃紺のビーズが数多く発掘され注目を集めました。ジャール平原やサーフィン、オケオは主に1945年ごろまでに、宗主国であったフランスの考古学者らによって発見・研究され、地中海域・ローマのとんぼ玉が数多く発掘されたことが報告されています。

タイ・バンチェン遺跡 Ban Chiang,Thailand

バンチェン タイ東北部、コラート高原北部に位置するウドンタニ(Udon Thani)県バンチェン(Ban Chiang)にある紀元前2100年~紀元後200年ごろの古代遺跡。本格的な発掘は1960年以降、タイ芸術局や米ペンシルベニア大学などが行いました。独特の彩文土器が有名ですが、右の写真のような濃紺のそろばん玉のような形をした半透明のガラス玉も数多く出土し、地元のバンチェン国立博物館を始め東京国立博物館やベルリン・ダーレムにある国立民族学博物館などでも見ることができます。

 バンチェンとその周辺の遺跡では学術調査の一方、多くの土器、青銅器、ガラス玉が盗掘されて骨董市場へ流出し、日本にも数多く持ち込まれました。骨董市場でも考古学会でも土器への関心が高い反面、ガラス玉の学術的な分析はほとんど進まず、発掘調査報告書などでもガラス玉への言及はほとんど見当たりません。そのため、これらのガラス玉の製造・流通時期すらはっきりしていません。

 1980年代の東京国立博物館の図録によると、バンチェンのガラス玉は彩文土器や青銅器と一緒に出土したという説と、その上層から出土したという説があり、「ガラス玉は紀元前後から4~5世紀と考えられるが確証はない」ということです。現在の東京国立博物館の展示では「前1千世紀末~後1千世紀初頭」と解説し、ベルリンの国立民族博物館は「紀元前1200年~200年ごろ」としています。

ban3s.jpgban2s.jpg そろばん玉状のガラス玉の他にも、長さ20cm近くもある「管玉」(東京国立博物館蔵)、「けつ状耳飾り」「渦巻型耳飾り」「腕輪」(ベルリン国立民族博物館蔵)などのガラス製品が発掘されています。管玉は身に着けるには大きすぎるため、財貨として扱われていたとの指摘もあり、いずれせよ、ローマや中東、中国のガラスとは異なるガラス文化が古代のインドシナ半島に生まれていたことがうかがえます。

 また、インドパシフィックビーズと思われる橙色のディスク状ガラス玉の首飾り(紀元前300~200年、バンチェン国立博物館蔵)も発掘されています。

ベトナム・サーフィン遺跡 Sa Huynh,Viet Nam

 ベトナム中部、クアンガイ省の砂浜海岸サーフィン(Sa Huynh)にある古代遺跡。ベトナム国内の広い範囲に同系列の遺跡が分布し、総じてサーフィン文化と呼ばれています。紀元前1千年紀中頃に始まる青銅器段階『早期サーフィン文化』と、紀元前後の鉄器をともなう段階『典型サーフィン文化』に区分されています。
 
 サーフィン文化は甕棺墓群が特徴で、甕棺の内外には下図のようなガラス玉や特徴的な「有角けつ状耳飾り(右の写真・ガラス製Ling Ling-O型・右角が欠損)」「双獣頭形耳飾り」などの装身具も副葬されていました。これらの耳飾りは石製とガラス製があり、フィリピンのルソン島やパラワン島、台湾蘭嶼島、タイ中西部、マレー半島などでも発見されています。

 サーフィン遺跡から出土したガラス玉の一部は、1930年代にフランス人マドレーヌ・コラニ(Madeleine Colani)が報告しています。ガラス玉は現地で生産された可能性もあるものの、「大多数は輸入品で、当時既に国際交易ネットワークが存在した」と指摘したそうです。1940年代には日本人研究者は「青緑色のローマ式グラス珠が多く出土した。このグラス珠の密度は2・40で、鉛もバリウムも含まず、まったくのローマ製と思われる」としています。
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 しかし、近年の研究によると、ガラス玉には確かに輸入品が存在するものの、サーフィン文化期にはガラス製品を製造する技術が現地で確立しており、ベトナム北部のドンソン文化まで広まったという有力な説が提示されています。

 紀元前111年、前漢がベトナム北部にあった南越国を滅ぼし、中部ベトナムまでを占領すると、現在のフエのあたりに日南郡を置きましたが、紀元後192年、反乱が起きて林邑(りんゆう・チャンパ王国)が成立しました。この林邑の範囲はサーフィン文化の甕棺墓遺跡の広がりとほぼ重なっており、サーフィン文化は林邑文明の直接の祖先と見なされているということです。

ベトナム・オケオ遺跡 Oc-èo,Viet Nam

 林邑が成立したころ、ベトナム南部・カンボジアの一帯には扶南(フナン王国・1~7世紀)がありました。ベトナム南部キエンザン省にあるオケオは、扶南の海外交易の中心都市と考えられている2~6世紀ごろの遺跡です。1942年、フランス人ルイ・マルレ(Louis Malleret)が発見し、遺跡からは漢の鏡やローマの金貨などが見つかりました。なかでも、ローマのガラス玉・とんぼ玉も大量に発掘され、『ローマ=インド=インドシナ=中国』を結ぶ海の貿易路を直接的に物語る遺跡とされています。…続く(2006.4.29)

ラオス・ジャール平原 Plain of Jars,Lao

r1s.jpg ラオス北部、ジャール平原のチャンニン地区には、最大で高さ3メートル、重さ15トンにもなる石甕や墓標石が多数集まる巨石遺跡群があります。これらの遺跡は1930年代にフランス極東学院のマドレーヌ・コラニ(Madeleine Colani)によって調査され、世界に広く知れ渡ることになりました。十分な深さのある石甕は骨壺として使われ、石甕の中や周辺の土中からは人骨や歯、鉄器や土器の破片、ガラス製ビーズなどの副葬品が発見されました。

 右上のイラストはジャール平原の中でも、約250基と最も多く石甕が密集しているバンアン(Ban Ang)遺跡からコラニによって発見されたとんぼ玉です。他にも下のイラストの様なガラス製ビーズが、遺跡からも多数見つかっているということです。

r2s.jpg
 これらの巨大遺跡群がいつ建造されたかについては、いまだ解明されていません。「出土した青銅器類がバンチェン文化後期典型サーフィン期と共通し、紀元前後に建造された」「出土した土器の文様などから、8~14世紀ごろに建造された」といった見方があるようですが、出土物は概ね紀元前500~紀元800年ごろのものであるということです。

 コラニはビーズの多くは漢からの輸入品だったとしているようですが、1940年代には別の日本人学者が「ガラス玉の成分などからローマ起源のもの」だとしています。…続く(2006/6/27)


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【とんぼ玉とビーズの世界史】
人類最古のビーズ(10~9万年前 )  古代エジプト・隕石のビーズ(B.C.3000年頃)   宝貝のビーズ(B.C.1000年頃~)   17世紀のとんぼ玉   20世紀のとんぼ玉

【重層貼眼玉】  
フェニキア玉   ケルト玉  ペルセポリス型  イラン・ガレクティ1号丘5号墓  ペルシアの瑠璃玉

【古代ローマ】
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【ヨーロッパ・アフリカのとんぼ玉】
ベネチア玉  エチオピアンチェリー  ロシアンブルー  キッファビーズ  カメルーン  ベルベル人

【日本・中国のとんぼ玉】
江戸とんぼ玉  かんざし  和泉蜻蛉玉(大阪)  アイヌ玉(シトキ・タマサイ)  《民藝 387号》  戦国とんぼ玉  乾隆玉と単色玉

【アジア・オセアニアの諸民族】
台湾・パイワン族(排灣族)  《民藝 76号》  ボルネオ島・ダヤク族  パラオ共和国(ウドウド)  ミクロネシア連邦(ヤップ島)  インド・ナガ族

【アジアのとんぼ玉】
インド・バラナシ  インドパシフィックビーズ  ジャワ・ジャティムビーズ  ニューギニアビーズ

【東南アジアの遺跡】
タイ・バンチェン  ベトナム・サーフィン  ベトナム・オケオ  ラオス・ジャール平原

【コレクション】
芹沢銈介コレクション  平山郁夫コレクション  川田順造コレクション  とんぼ玉美術博物館コレクション
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