この説を裏付けることになったのが、1938年にセリグマン(C.G.Seligman)とベック(H.C.Beck)が発表した論文「極東のガラス、その西方起源」“Far Eastern Glass: Some western origins”です。この論文では、化学分析の結果をもとに、戦国とんぼ玉はエジプトを含む西方より伝来してきたものか、あるいは、中国でそれらを模倣して作られたものか、そのいずれかであると結論づけ、戦国玉の西方起源論を展開しました。
この飾りはマハカム川下流の都市で入手されたものです。熊の歯の数をすべて足した時、偶数になるのは男の子のための背負子で、奇数は女の子のものだそうです。『Manik-Manik di indonesia』によると、ストライプ模様のとんぼ玉はヴェネチア製、黄色の薄いディスク状のものはボルネオ製、小さな黄色のビーズは中国製で時代は16~17世紀のものということです。
ナガ族はビーズジュエリーが発達していることも有名で、『History of Beads』によると、貝はベンガル湾、カーネリアンと真鍮製ベルはインドから、ガラス玉はインドとヴェネチアからもたらされたということです。ナガ族が過去、どのようにこれらの素材を手に入れたかは明らかではありませんが、「おそらく交易を支配していたアンガミ族のような特定の部族がもたらしたのではないか」とされています。
これらのジャティム・ビーズは、しばしば「マジャパヒト・ビーズ(Majapahit beads)」と称されることもありますが、『MANIK-MANIK di Indonesia (BEADS in Indonesia)』によると、この名称は骨董商が親しみやすく分かりやすい名前をつけただけで、実際には13-16世紀に栄えたマジャパヒト王国の遺跡からは一切見つかっていないということです。「マジャパヒト・ビーズ」の名称はL.S.Dubinによって『History of Beads』の中で紹介されたため(例えば巻末のビーズ年表903番など)、誤って広まってしまったということです。
『Manic-Manic di indonesia』や『Collectible Beads』によると、おそらく17~19世紀に中国で作られこの島までもたらされたということですが、中国ではこの玉はほとんど発見されておらず、製作地についての正確な情報はありません。 乾隆ガラスの伝世品と質感が似ており、時代的、距離的にも近いため中国製と推測されているようです。