古代エジプト・隕石のビーズ B.C.3000年頃

ゲルゼ遺跡1 1911年、エジプトの首都カイロから南に約70キロのところにあるゲルゼ(Gerze)遺跡から、9つの小さな金属製のビーズが発見されました。約5000年前のもので、金やカーネリアンと並んで首飾りに使用されており、エジプト最古の鉄の加工品とされていました。この時代の金石併用期文化は、ナカーダII文化とも呼ばれています。

 これらのビーズは、2013年、X線や中性子を利用した非浸襲的な分析で、ニッケルやゲルマニウムの含有量から原材料が隕石であることが判明しました。隕鉄を非常に薄く伸ばした後に、チューブ状に丸めてつくられており、非常に高度な技術が使われています。(2016.11.15)

江戸とんぼ玉

 町人が文化の中心となって芸術、娯楽、経済、物流が非常に活発になった江戸時代(1603-1867年)。町人の間では「印籠・巾着」「煙草入れ」「簪・櫛」などの提物(さげもの)や髪飾りが流行し、玉の需要が大きく増加しました。明治時代に書かれた黒川真頼著『工芸志料』(1878年)などによると、徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長年間(1596-1615年)に印籠や巾着を腰につけるのが広まり始め、その後寛文年間(1661-73年)に煙草入れが流行、玉はこれら提物の緒締(おじめ)として需要が急増しました。江戸後期になると、印籠は上級武士や富裕な町人だけではなく広く町民の間でも使われるようになり、文化年間(1804-18)には女性が簪や櫛に玉をつけるのが江戸・大坂・京都の三都をはじめ各地で流行したということです。
 
 玉の材質は水晶、瑪瑙、珊瑚、象牙、貴石、そしてガラスなど多岐にわたり、模様や形も様々な工夫がなされました。庶民があまりにも玉に財産を費やすため、1838年には徳川家慶が櫛や簪、煙草入れなどの翫物に珊瑚玉などを豪華な装飾を施すことを禁じるお触れを出したことが徳川禁令考などの資料からうかがい知ることができます。
 
 江戸時代には、玉の名前が材質や模様によって細かく分類されました。1781年に大阪の古物商・稲葉新右衛門によって書かれた『装剣奇賞』は、同じガラス玉(吹きもの)でも、「筋玉、雁木玉、トンボ玉、印花玉、糸屑玉」などと模様によって区別し、「トンボ玉」を「是も吹きものなり。但、地は虫の巣の如き薬にて色は浅黄萌黄などあり、紋は椰子の紋、又は散り桜のごとき花見えたり」と定義しました。(装劍奇賞の実物は『根付のききて』さんのサイトで見ることができます)

 由水常雄著『トンボ玉』によると、江戸時代にとんぼ玉の製作が最も盛んだったのは大坂で、「今日残っている江戸トンボ玉の大半は大坂の玉造や泉州で作られたものと考えていいであろう」と述べています。大坂の職人は技術も最も優れていたようで、前出の『工芸志料』は「ガンギ玉及びトンボウ玉を模造することは、其の始め大坂の工人某の発明する所に出づるなり」としています。

 江戸時代、国内でガラスが作られるようになったのは長崎が最初だとされています。1573年に肥前大村藩主・大村理専が長崎にオランダ人との貿易港を開設し、その後しばらくしてガラス玉をはじめとするガラス製法が渡来したと思われます。記録としては元和年間(1615-23年)に長崎商人・浜田弥兵衛が国外に渡航し眼鏡製作方法を学び、帰国後に生島藤七にその技法を伝えたことが西川如見著『長崎夜話草』(1720年)に記されています。生島藤七はさらに国内で南蛮人ガラス工からも技術を学び、長崎で念珠・スダレなどをつくり『多麻也(たまや)』と呼ばれるようになったそうです。

 寛永年間(1624-44年)には中国からガラス工が長崎に渡来、ガラス玉の技術を伝えました。『工芸志料』は「長崎の工人、或いは南蛮法に従うものあり、或いは支那法に従う者あり、或いは南蛮法と支那法とを混淆して伝うるも者あり」と説明しています。長崎のガラス製造技術はその後、大坂や江戸に伝えられたということです。

 杉江重誠編『日本ガラス工業史』(1949年)の「第二章 徳川時代のガラス渡来と発達」によると、長崎から大坂にガラス製造が伝えられたのは宝暦年間(1751-64)、長崎商人・播磨屋清兵衛が大坂に移り、北区天神橋筋に工場を設けてカンザシや盃などをつくり始めたのが最初で、同著は「大阪でガラスが製造されたのはこれが最初である」と言い切っています。しかし、1732年に三宅也来によって書かれた『萬金産業袋』には既に「中頃摂州大阪に名人出来、右のとんぼ玉をつくり出せし」という記述があり、播磨屋清兵衛の来坂よりも前にとんぼ玉が大坂で作られていたことが分かります。現在では少なくとも正徳年間(1711-16年)には長崎のガラス製法が江戸や大坂に伝わっていたとされており、さらに大坂のとんぼ玉づくりについては長崎の玉づくりとはルーツを異にするという見方がでています。

 例えば、神功皇后(170-269年)の時代に高麗からガラス玉製法が伝わり、それが明治に到るまで密かに連綿と続けられていた、という説があります。おなじ『日本ガラス工業史』でも「第一四章 その他のガラス工業の発達」では、大坂・泉州のとんぼ玉づくりについて「神功皇后が三韓征伐から帰らるる時、高麗から玉を製作する技術者をつれ帰り、浪速朝廷の地に近い堺市で技法を日本人に伝授せしめたのが、その嚆矢であるといい伝えられている。明治初年頃にもこの地にガラス玉製作の技法が残ってい」たと述べています。この説と一部符合するのが、7世紀後半の奈良・飛鳥池遺跡から見つかったガラス坩堝やガラス玉鋳型で、日本でも古くからガラス玉が生産されていたことが確認できます。

 また、大坂のガラス玉には限定されていませんが、12世紀ごろに中国・宋からガラス製法技術が伝わったとする見方もあります。中山公男監修『世界ガラス工芸史』(2000年)によると、「近世日本のガラス組成は、鉛の含有量が45%程度の、高鉛ガラスである。当時ヨーロッパで作られていたガラスは主としてアルカリ石灰ガラスで系で、原料調合法が日本の物と全く異なっている。金属鉛を溶かし、石粉を附着させ、そののち硝石も加えるというもので、このような製法は、中国宋時代の方法と類似していることから、12世紀頃に中国から伝来し、明治に到るまで秘伝として伝えられたと思われる」と述べています。江戸時代の「トンボ玉」という名称と、中国の乾隆玉に影響を受けたと見られるその意匠から、江戸とんぼ玉と中国との関係は深いとみられ、大坂の江戸とんぼ玉のルーツを中国に求めることは自然だと思われます。

 その他にも、長崎で行われていた玉づくりの製法と、大坂・和泉での玉つくりの方法が大きく異なるという指摘もあります。各務鑛三著『硝子の生長』(1943年)は、昭和初期に泉州・信太村で盛んにされていた玉づくりと、江戸後期の『長崎古今集覧名勝図絵』にある長崎での玉づくりを比較し、長崎の方がオートマチックな設備を採用しており遙かに能率的だとしています。

 いずれにせよ、大坂の玉造や泉州で盛んに作られていたとんぼ玉の起源ははっきりとは分かりませんが、長崎の技術とは異なるルーツを持っていると考えるのが妥当のようです。ガラス研究家のなかには、江戸時代のガラス製造は長崎から始まったという説を否定し、大坂が製造開始の地であるとする見方すら存在しています。

大阪・泉州のとんぼ玉

 大阪・泉州地域でのとんぼ玉づくり。1949年に大阪で発行された杉江重誠編集『日本ガラス工業史』にはガラス産業の発展の歴史が詳しく記されており、泉州玉・さかとんぼの起源についても次のように説明しています。

  『大阪府の和泉國、今の堺市付近では昔からガラス玉が作られ、泉州玉と呼ばれて有名であった。この泉州玉の由来をたずねると、神功皇后が三韓征伐から帰らるる時、高麗から玉を製作する技術者をつれ帰り、浪速朝廷の地に近い堺市で技法を日本人に伝授せしめたのが、その嚆矢であるといい伝えられている。
 
 明治初年頃にもこの地にガラス玉製作の技法が残っていて、泉喜三郎、柴田寅吉などは専ら神仏装飾用及び念珠玉或いは玉簾などを製作していた。明治10年(1877年)頃この和泉國泉北郡池上村に農を業としていた神山喜代松は、ガラス玉製造の有望なるに着目し、自ら柴田寅吉についてガラス玉の技法を習得し、帰村の上その製造に着手した。その時の製品は全部柴田寅吉に渡して売り捌いていたが、当時としてはその工賃は極めて有利なものであった。この時彼の従弟に当たる藤原政太郎も彼から技術の伝授を受けて製作していたが、諸物価の安い当時片田舎で行われた農村の副業としては甚だ有利な仕事であったので、村民から技術の伝授をせまられ、遂にそれに応じて技術を公開した。これが和泉國にガラス玉製造の発展した元であった。

 当時は交通も不便であったから需要地である京都へ運ぶにも、大阪の天満まで運び八軒家から淀川上りの川舟に積み込み、伏見の浜から京都の問屋へ送り届けたのであった。

 一方、大阪の玉造の地で明治十年頃、小林吉兵衛(明治40年3月11日歿)はタバコ入れの緒締をガラス玉で製造したほか、吉兵衛自ら金型を作り、型ものと呼ばれる押型オモチャも作っていた。さらにその後明治15年(1882年)には我国で始めてガラスで模造宝石を製作した。従って小林吉兵衛は、現代日本のガラス工業の草分けの一人というべきである。そしてその弟子であった加藤達は、明治32年(1899年)の頃ガラスの置物や色ガラスの玉をつけた花針と待針を作った。これがガラス玉付き待ち針の嚆矢であったといわれている。

 このようにして、さきの神山喜代松と小林吉兵衛のガラス技術は、その弟子達を通じて次第にひろまり、ここに和泉國信太村のガラス玉類は、その地の特産品として有名になった。』

 明治時代にこの地域でとんぼ玉がどのように作られていたかは、アイヌ芸術研究者・杉山寿栄男氏が『アイヌたま』に詳述しています。杉山氏は昭和初めごろに「河内国泉北郡葛ノ葉村」でとんぼ玉づくりを実見し、その様子をまとめています。まず、昭和初期に実際に行われていたとんぼ玉の製作方法についての説明です。

 『棚と机を兼ねた如き細工台の箱が置かれて、左方にアルコールランプがありAB二線のゴム菅の下部が石油缶に入り、フイゴの先に竹の棒が結びつけられて、これを足で踏むと、フイゴの空気は石油缶に入って圧搾され、その空気はAから入ってはアルコールランプの火力を強くし、Bに通ずるものは、玉の冷却に使用するように出来ている。

 職人は箱に腰をかけて、この火口に針金の如き細き一尺位の串の棒を鉄火に炙りつつ、一方右手に硝子の材料である一尺位の硝子の棒を火に炙りつつ、左手の鉄串を回転している内に、硝子は溶け始めてこの鉄串に巻きつき、適宜の玉が作り出される。これらの玉を造るには、他に何等道具を使用せず、一定の丸さの玉が炙り出されるので、たまたま丸みの不正の時には、傍に薄い鑢があってそれで修正する。またみかん玉を作る時にも、玉の軟らかい内にこの鑢の薄い刀の面で玉に筋を入れれば、みかん玉状の筋玉が得られるので、このひとつの串に団子の如く幾つも並列されるものである。この鉄串には最初に房州砂(人によっては荒木田土)の如き石粉が塗布されて、この玉が冷却してから、この鉄串から容易に抜き取られる様、この粉が附されるので、よく古い玉の孔口の内に、この白粉が残されてある。これら一つの鉄串に綴られた玉は下部の藁灰の箱に入れられ、玉が冷却してから、この串を抜きとるのである。』

meiji.jpg 明治初年ごろは『大体その製作法は同一であるが、液体燃料使用と固体の炭やコークス燃料の相違は古くは窯の応用となっている。』ということです。
 
 具体的には、(1)のAにガラスの原料を入れて溶かし、(2)のように巻き付け、(3)で形を成型し、(4)のように藁灰で冷却する。(5)で玉を串から抜き取り、鉄串の先に金剛砂をつけて孔口の修正をしたら完成という一連の作業の流れが説明されています。

 (3)のように半球の鉄型で作られたものはアイヌのとんぼ玉の古いものにもあって、両面から張り合わせてようなものはこの型によって作られたものだと考えられるそうです。

日本・アイヌ玉 (シトキ・タマサイ) Ainu,Japan

 左の写真は盛装しているアイヌ女性(アイヌメノコ)です。女性の首飾りの中央にある金属製の飾板をシトキといい、転じて飾板のある首飾り全体がシトキと呼ばれています。内側の玉だけのものはタマサイ(玉サイ・玉彩)といい、シトキは重い宗教的儀式に用い、タマサイは盛装した時、あるいは普通の儀式に使われたということです。アイヌ女性にとって玉類はとても大切なもので、祖母から母へ、母から娘に女の魂として代々伝えられ、家の上座にある宝物座の玉手箱などに安置されていたということです。

 首に直接巻き付けられているのはレクトゥンペという飾り布で、金属製飾板が縫いつけられています。レクトゥンペが本来の『首飾り』であって、シトキ・タマサイは『胸飾り』といった方が正確かもしれません。鉢巻きはマタンプシといい、明治の中頃までは男性だけが仕事の時に髪が乱れないように頭に巻いていました。

 シトキは人体に見立てられ、個々の玉に名前があるといいます。心臓にあたる飾板「シトキ」のすぐ上はサパネタマ(親玉、頭玉)、さらに上にいくに従いレクツンタマ(頸玉)、ペンラムタマ(胸玉)、ツマムタマ(胴玉)、テクンタマ(手玉)、ケマウンタマ(足玉)などと呼ばれ、タマサイは中央の大きな玉がヌムンタマ(核玉)、ポロヌムタマ(大核玉)と呼ばれるそうです。
 
 個々の玉の形、大きさ、色、模様は多種多様で、杉山寿栄男著『アイヌたま』は「アイヌの玉の色彩は多種多様であるが、地が浅葱色(あさぎいろ)の玉がもっとも多い。故にアイヌ玉といえば、すぐにこの無地の浅葱色でもって代表させて考えた傾向があるから、従来アイヌ玉は無地玉ばかりであると書かれたものであった」と説明しています。

DSCN59950001.jpg さらに「浅葱色の表面に製作する時の気泡が穴となって表面に所々残ったものを一名「虫の巣玉」と呼ぶ」と解説しています。この虫の巣玉は江戸時代、煙草入の緒締などとしてとても珍重されていたそうで、18世紀前半の本にも「むしの巣、色浅黄色にてすきは通らず。蝦夷にて製す。つくり物なり」と記されています。

 実際には後述のように蝦夷では作られておらず、山丹交易(サンタン交易)でもたらされたものだと思われますが、「つくり物なり」という説明が重要で、かつて松前藩がこの玉を徳川綱吉(在職:1680-1709年)に献上していたところ、生類憐みの令のご時世、本当に虫の巣であったらまずいということで、問題になったことがあるそうです。 

 虫の巣でないことを明らかにするため、松前藩では玉を火に入れて検証したことが18世紀初頭の記録に残っており、この話は1919年に発表された宮本百合子の小説「津軽の虫の巣」の題材にもなっています。

 国立民族学博物館の解説書「ラッコとガラス玉」などによりますと、実際に確認できるアイヌの最も古いガラス玉は、現在新千歳国際空港の滑走路となっている千歳市美々8遺跡のもので、1667年までと、1739年までの地層からガラス玉が30個ほど出土しています。18世紀から19世紀にかけ山丹交易が活発になり、アムール川流域の山丹人の手を経て主に中国製のガラス玉がアイヌの手元に蓄えられ、虫の巣玉などが松前藩などを介して本州にもたらされたということです。

 1800年代以降は江戸や大坂などでとんぼ玉が豊富に生産されてアイヌ社会にもたらされました。現在各地にコレクションとして残されている大玉や派手なとんぼ玉を綴った首飾りの多くは、明治末から大正時代にかけてアイヌ観光の興隆に伴って蓄積されたものだということです。

台湾・パイワン族 Paiwan,Taiwan

paiwan.jpg 左の写真は盛装している台湾・パイワン族の女性です。女性の首にはとんぼ玉の首飾りがかけられています。

 かつて高砂族と呼ばれた台湾の原住民は、居住地域や習慣、言語などの違いによってタイヤル(泰雅・アタヤル)族 、アミ(阿美)族、ツォウ(鄒)族 、ブヌン(布農)族、プユマ(卑南)族、ルカイ(魯凱)族、パイワン(排湾)族、ヤミ(雅美)族の9族に大きく分けられました。

 1930年代の日本統治時代に行われた調査などによると、台湾南部の山岳地帯に住むパイワン族のブツル群に属する人々が特にとんぼ玉を珍重していたそうです。パイワン族の至宝は頚飾玉と素焼の小壷で、この小壷に頚飾玉を秘蔵し、屋根裏などの人目にふれない場所に小壷を隠して置いたということです。その価値は、ある村では「首飾りの主玉の値は女頭目一人の生命と同じ」「故意に人を死に至らしめた時には、五粒の首飾り玉を以て償いとする」などと明確に決められていました。

 1920年代に台湾に渡った日本人研究者は、「パイワン族は(17世紀に東インド会社の)オランダ人と接触するはるか前、原始時代からとんぼ玉を持っていた」「台湾でつくられた形跡がなく、香料との交換品としてヨーロッパ・アラビアからもたらされた」「パイワン族のとんぼ玉は中国文化の延長ではなく、熱帯地域の土俗品の延長と見るのが合理的」「後世に中国でガラス玉の製法が発達してからは、補充品として長い間、絶えず輸入していた」などと述べています。

 これらの考察が正しかったのかどうかは、具体的にパイワン族が秘蔵していたとんぼ玉がどのようなものだったのかを検討する必要があります。下のイラストは、台湾大学が収蔵するパイワン族のとんぼ玉コレクションの一部です。

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 イラストから分かるのは、フェニキア玉や、ヴェネチアの玉まで、非常に多岐にわたる玉をパイワン族が所有していたということです。17世紀以前の玉がいつ台湾にもたらされたのかは確定できませんので、上の考察のように「原始時代から持っていた」とは即断できませんが、可能性としては十分ありうることだと思います。また、少なくとも第二次世界大戦以前に台湾でとんぼ玉がつくられていた形跡は見つかっていません。

p5.jpg また、右の写真に見られる玉のように、どこで作られたのかはっきりしない玉があります。この玉はムリムリタン(mulimulitan)と呼ばれ、もっとも貴重な玉としてネックレスでも一番中央に配置されています。

 現在、台湾の原住民がとんぼ玉を製作、販売していますが、その多くはパイワン族が長らく秘蔵してきた玉のうち、玉の起源がはっきりしないムリムリタンのようなものを台湾独自の玉として作っているようです。1970年代初頭から、政府系財団が原住民の経済的格差を解消するために新たな産業を興すことを目的とし、計画的に生産者の育成や工房の支援をおこなってきたということです。

※柳宗悦による台湾のとんぼ玉に対する言及→《民藝 76号》 台湾パイワン族頸飾り 1959.4

ジャワ玉(ジャティム・ビーズ)

 ジャティム(Jatim)とはジャワ・ティモール(Java Timur)を縮めた略語で、ジャティム・ビーズとは、主にインドネシアのジャワ島で発掘される独特の模様を持つビーズを指します。多くは、黄・緑・茶などの単色のコアを持ち、表面にカラフルな小円や線模様が施されており、その意匠は西アジアのモザイク芯玉の影響を強く受けているとされています。
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 ジャティム・ビーズの中でも、羽根模様(主に青・白の2色か、青・白・赤・黄の4色)を持ったものは、特にManik pelangi(Rainbow beads、プランギ、右の写真)と呼ばれ、他にもManik itik(Duck Beads)やManik burung(Bird Beads、マニックブルン)などと呼ばれるものがあります。

 これらのジャティム・ビーズは、しばしば「マジャパヒト・ビーズ(Majapahit beads)」と称されることもありますが、『MANIK-MANIK di Indonesia (BEADS in Indonesia)』によると、この名称は骨董商が親しみやすく分かりやすい名前をつけただけで、実際には13-16世紀に栄えたマジャパヒト王国の遺跡からは一切見つかっていないということです。「マジャパヒト・ビーズ」の名称はL.S.Dubinによって『History of Beads』の中で紹介されたため(例えば巻末のビーズ年表903番など)、誤って広まってしまったということです。

 『Manik-』によると、ジャティム・ビーズは発掘調査の結果などから、300年ごろから製作が開始され遅くとも900年ごろまでにジャワ島東部で作られ、現在、発掘されるのもこの地域にかたよっているということです。・・・続く(2006.4.17)

ニューギニア玉(New Guinea beads)

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 右の写真は、ニューギニア島西部、インドネシア・パプア州(かつてのイリアンジャヤ州)に伝わるとんぼ玉です。不透明な黄色のメロン玉で、ずっしりとした重さがあります。

『Manic-Manic di indonesia』や『Collectible Beads』によると、おそらく17~19世紀に中国で作られこの島までもたらされたということですが、中国ではこの玉はほとんど発見されておらず、製作地についての正確な情報はありません。 乾隆ガラスの伝世品と質感が似ており、時代的、距離的にも近いため中国製と推測されているようです。

 結婚の際に使われたとされており、ある貨幣コレクターはニューギニア島の北西岸にあるチェンドラワシ(ヘールフィンク)湾地域や北岸のフンボルト湾地域でこの玉を大量に収集したということです。(2007.5.5)
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【とんぼ玉とビーズの世界史】
人類最古のビーズ(10~9万年前 )  古代エジプト・隕石のビーズ(B.C.3000年頃)   宝貝のビーズ(B.C.1000年頃~)   17世紀のとんぼ玉   20世紀のとんぼ玉

【重層貼眼玉】  
フェニキア玉   ケルト玉  ペルセポリス型  イラン・ガレクティ1号丘5号墓  ペルシアの瑠璃玉

【古代ローマ】
労働者のビーズ  壺型とんぼ玉  帯状モザイク玉

【ヨーロッパ・アフリカのとんぼ玉】
ベネチア玉  エチオピアンチェリー  ロシアンブルー  キッファビーズ  カメルーン  ベルベル人

【日本・中国のとんぼ玉】
江戸とんぼ玉  かんざし  和泉蜻蛉玉(大阪)  アイヌ玉(シトキ・タマサイ)  《民藝 387号》  戦国とんぼ玉  乾隆玉と単色玉

【アジア・オセアニアの諸民族】
台湾・パイワン族(排灣族)  《民藝 76号》  ボルネオ島・ダヤク族  パラオ共和国(ウドウド)  ミクロネシア連邦(ヤップ島)  インド・ナガ族

【アジアのとんぼ玉】
インド・バラナシ  インドパシフィックビーズ  ジャワ・ジャティムビーズ  ニューギニアビーズ

【東南アジアの遺跡】
タイ・バンチェン  ベトナム・サーフィン  ベトナム・オケオ  ラオス・ジャール平原

【コレクション】
芹沢銈介コレクション  平山郁夫コレクション  川田順造コレクション  とんぼ玉美術博物館コレクション
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