
民芸運動に深い影響を受け、自らも世界各地の民芸品を蒐集した染色工芸家・芹沢介氏(せりざわ・けいすけ 1895-1984年)。芹沢氏のコレクションには、民芸運動を始めた柳宗悦らがほとんど蒐集しなかったアフリカや南アメリカの民芸品が含まれています。アフリカや世界各地のとんぼ玉もあり、それぞれの地域、時代を代表する逸品を、一粒ずつではなくまとまった連(ネックレス)の状態で収められているのがコレクションの特徴になっています。芹沢氏は時代や民族、地域ごとに異なるとんぼ玉の配列や、連が持つ力強さ、存在感に惹かれていたのだと想像できます。
【過去記事】芹沢氏とアイヌ玉については→《民藝 387号》あいぬ玉 1985.3
右上の写真は東北福祉大の芹沢介美術工芸館発行『芹沢介コレクション』の1ページですが、シェブロン玉やキングビーズ、六角平面のミルフィオリなど見事です。また、1979年にサントリー美術館で開かれた『芹沢介の蒐集 その一部展示』の図録(写真左)には典型的な
バンチェン玉、
台湾とんぼ玉、
ナガ族の連が掲載されています。図録のキャプションには「ネックレス アフリカ各地」あるいは「装身具」と記されているだけで、例えばシェブロン玉とヒョウの歯でつくられた首飾りが「カメルーン、あるいはコンゴ(ザイール)のクバ族(Kuba)かソンゲ族(Songye)のウェディング・ネックレスである」などといった、詳しい出所は書かれていません。
これは芹沢氏が美術商からモノを買うときに出自をまったく気にせず聞かなかったことに関係しているかもしれません。芹沢氏に「約十年間、三ヶ月に一度はお訪ねし、持ち込んだ物も何とかほとんど買ってもらえるようにはなった」という古美術坂田(東京・目白)の坂田和實氏によると、「芹沢さんは品物の肩書き、つまりどの時代に、どこの国で、何に使ったかというような出自を一切問わなかった」ということです。坂田氏は初めて品物を持ち込んだときの様子を次のように述べています。

「二十六年前、いかにも芹沢さんの好みそうなエチオピアの木製十字架を手に入れたので、骨董界の伝説的な人物に会える良いチャンスだと思い、紹介もなしに直接電話をしてみると、電話口に出てきたのは御本人で「ハイハイ、どうぞ持ってきて見せて下さい」と拍子抜けしそうな返事。こちらはまだ若かったし、最初の訪問ということでついつい力も入って、品物をゴッソリ持ってお伺いした。挨拶もそこそこに、さっそく品物を取り出すやいなや、くだんの十字架一点だけを取り上げて「これは良い、嬉しいネ、有難う、じゃ」と他の品物には眼もくれず、サッサと奥の部屋へ入られたのには参った、参った。せっかくこれだけの量を持ってきたのにとは思ってみても、一瞬の眼の勝負、とにかく説明が全然効かない、価格の安さが効かない、情も効かないのないないづくし。」(坂田和實「
ひとりよがりのものさし」新潮社 pp.58-59)
東北福祉大の図録によると、芹沢氏がアフリカの原始美術に強く惹かれはじめたのは1966年、71歳になって初めてヨーロッパ旅行をしたときからということです。それまでも暇さえあれば古美術・骨董店をめぐり民芸品を蒐集していましたが、アフリカの収集品は晩年になってから集められたものが多いという事です。
芹沢氏の長男で考古学者の長介氏は「85歳を過ぎてからの介は、小川弘氏(編注:東京かんかん)がアフリカに渡って集めて来られたさまざまの木工品、衣類、マスク、家具、ビーズ、大壷等々にかこまれ、(中略)幸せをしみじみと味わっていたに違いない」と述べています。
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民芸運動を担った陶芸家の濱田庄司は「自分の目で自分らしく物を見ることができれば、これは一つの創作といっていい」と述べていますが、芹沢氏は柳らとは違いアフリカのモノを積極的に取り込むことで独自のコレクションを作り上げました。古美術評論家の青柳恵介氏は芹沢氏の蒐集についてこう述べています。「洗練された美の静謐を破る雑多なもののエネルギーを芹沢は求めたのであろうか。出来上がってしまった茶の湯の美意識、民藝の美意識を、アフリカやインカの工芸の原始性を梃子にして、もう一つ先に転がしてみたいという願いが芹沢介のコレクションから見てとれる。」。確立された美意識をもう一つ先へ。この芹沢氏が創造した蒐集は一つの美の基準となり、次の世代の美術商、骨董商、コレクターに大きな影響を与えることになりました。(2009.8.1)