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とんぼ玉とは

とんぼ玉とんぼ玉とんぼ玉とは模様があり穴のあいているガラス玉(glass beads)のこと。蜻蛉玉。 模様をトンボの複眼に見立てたことからその名がつき、江戸時代には模様によって「蜻蛉玉」「筋玉」「更紗玉」などと呼び分けられていました。当サイトでは、現代のとんぼ玉ではなく、古代から近世にかけてのアンティクビーズ、トレードビーズ、または古代ガラスについて主に紹介しています。現在、下記のテーマについての記事を公開しています。当サイトへの連絡は、右下のフォームからお願いします。

【とんぼ玉とビーズの世界史】
人類最古のビーズ(10~9万年前 )  古代エジプト・隕石のビーズ(B.C.3000年頃)   宝貝のビーズ(B.C.1000年頃~)   17世紀のとんぼ玉   20世紀のとんぼ玉
【重層貼眼玉】  
フェニキア玉   ケルト玉  ペルセポリス型  イラン・ガレクティ1号丘5号墓  ペルシアの瑠璃玉
【古代ローマ】
労働者のビーズ  壺型とんぼ玉  帯状モザイク玉
【ヨーロッパ・アフリカのとんぼ玉】
ベネチア玉  エチオピアンチェリー  ロシアンブルー  キッファビーズ  カメルーン  ベルベル人
【日本・中国のとんぼ玉】
江戸とんぼ玉  かんざし  和泉蜻蛉玉(大阪)  アイヌ玉(シトキ・タマサイ)  《民藝 387号》  戦国とんぼ玉  乾隆玉と単色玉
【アジア・オセアニアの諸民族】
台湾・パイワン族(排灣族)  《民藝 76号》  ボルネオ島・ダヤク族  パラオ共和国(ウドウド)  ミクロネシア連邦(ヤップ島)  インド・ナガ族
【アジアのとんぼ玉】
インド・バラナシ  インドパシフィックビーズ  ジャワ・ジャティムビーズ  ニューギニアビーズ
【東南アジアの遺跡】
タイ・バンチェン  ベトナム・サーフィン  ベトナム・オケオ  ラオス・ジャール平原
【コレクション】
芹沢銈介コレクション  平山郁夫コレクション  川田順造コレクション
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人類最古のビーズ 10~9万年前

shell.jpg 2006年6月23日付米科学誌サイエンスによると、英ロンドン大などの国際研究チームが、9~10万年前に作られたとみられる人類最古の装飾品となる貝殻のビーズ3個を発見しました。大きさは約1.5~2センチで、 Nassariusという海の軟体動物がつくり出した小さな巻き貝に石器で穴を開け、植物のひもなどを通してネックレスかブレスレットにしていたとみられるそうです。

 3つのうち2つ(写真上)はイスラエル北部、ハイファ南方のカルメル(Carmel)山の斜面にあるスフール(Skhul)洞窟で1930年代初頭に見つかり、ロンドン自然史博物館に収蔵されていました。残る1つ(写真下)はアルジェリアのOued Djebbanaの遺跡で1940年代終盤に発掘され、パリ人類博物館に収蔵されていました。

 「穴が同じ位置に自然に開く可能性は1/1000以下で非常に低く、内陸の遺跡まで意図的に運ばれた」という事です。同様のビーズはこれまで、南アフリカのブロンボス洞窟から約7万5000年前のものが41個見つかっており、今回はこれらより約2万5千年古いということです。

宝貝のビーズ・貝貨 B.C.1000年頃~

sanixingdui1.jpg 1986年、中国四川省広漢市の西南にある三星堆遺跡に2つの祭祀坑が見つかり、青銅器や玉器、象牙など大量の文物が発掘されました。黄金のマスクをつけた青銅の仮面(左の写真)が有名ですが、紀元前約1000年ごろのものとみられる祭祀坑からはからは約4700個の宝貝(タカラガイ、子安貝)も見つかりました。

 この時代の宝貝には穴があけられたり表面が削り取られたりして紐が通されており、世界でもっとも早い時期の貨幣(貝貨)として、あるいは財宝としてつかわれていました。紐に通された宝貝は『朋』という単位で数えられており、宝貝は3000年前から現代まで連綿と人類によって加工され、利用されてきたビーズということができます。

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フェニキア玉 B.C.500年頃~

20061103035510.jpg 黎明期(紀元前2000年紀)のガラスは2つの川、すなわちナイル川とチグリス・ユーフラテス川の河畔に成立して発展しましたが、紀元前1000年紀になると、ガラス発展の中心地は地中海を取りまく地域へと移っていきました。なかでも、地中海東海岸に位置するフェニキアのシドンはガラス生産の中心地として発展し、フェニキアや植民地カルタゴでは右の写真のような重層貼眼玉やコアガラス、人頭とんぼ玉が生産され輸出されました。重層貼眼玉は紀元5~4世紀ごろに作られていたとみられていますが、現在でも人頭とんぼ玉とともに、大英博物館やルーブル美術館などで見ることが出来ます。

 ローマ時代の学者、プリニウスは紀元前1世紀、『博物誌』でガラスの起源はフェニキアであると述べています。『こういう話がある。天然ソーダを商う何人かの商人たちの船がその浜〔フェニキアの海岸〕にはいって来た。そして食事の用意をするために彼らは岸に沿って散らばった。しかし彼らの大鍋を支えるのに適当な石がすぐには見つからなかったので、彼ら積荷の中から取り出したソーダの塊の上にそれをのせた。このソーダの塊が熱せられてその浜の砂と十分に混ざったとき、ある見たことのない半透明な液が何本もの筋をなして流れ出た。そしてこれがガラスの起源だという。』

 フェニキアのガラスよりも、エジプトやメソポタミアにおけるガラスの生産のほうが早い時期に行われたことは分かっていますが、ある科学者は実際にこの伝説を試し、この方法でもガラスが作れることがわかりました。1940年代に日本で書かれたガラスの概説書は『これ迄いろいろな説がプリーニー〔プリニウスのこと〕の説を批判してをりましたがアメリカでモンローという科學者その書物の内容について細々と傳説の通りに實験を致しました。それは今から14、5年前のことですが、モンローは砂(珪砂)と曹達〔ソーダ〕を混合して、その上に薪をのせ、火を點じて2時間後、灰の下からドロドロに融けたガラスを取出しました。次に、硝石と砂でも同じような實験の結果、ガラスが出来たとの報告をしてをります』と紹介しています。

 フェニキアのとんぼ玉のなかでも、特に右上の写真のような重層貼眼玉は世界中にもたらされ、ヨーロッパではケルト人の間で流通し(ケルト玉)、中東ではアケメネス朝ペルシャのペルセポリス、同じくアケメネス朝のイラン・ギーラーン州ガレクティ、中国・曾候乙墓などにまで到達しました。特に戦国春秋時代の中国ではフェニキア・オリジナル(一部エジプト)のものに加え、現地で意匠をまねた玉(戦国とんぼ玉)がつくられるようなったことが分かっています。

ペルセポリス (アケメネス朝ペルシャ) B.C.550~B.C.330年頃

phoenicia.jpg 西はエジプト、東はインダス川流域まで支配したアケメネス朝ペルシア(B.C.550-B.C.330)の都ペルセポリスから左の写真のような白い重層貼眼玉が出土しました。模様の最下層の白地を横にのばし紺色の目の象嵌が特徴で、フェニキア玉の一種と考えられており「ペルセポリス型」と呼ばれています。ペルセポリスにはフェニキアを始めとする多くの植民地から朝貢品が届けられましたが、紀元前330年にマケドニアのアレクサンドロス大王の略奪・炎上に遭い、遺物はほとんど残っていません。しかし、宝物庫跡からは大理石彫刻やラピスラズリの壺、アラバスター製容器などが出土し、ペルセポリス型重層貼眼玉もここから発掘されました。

イラン・ガレクティ1号丘5号墓 (アケメネス朝ペルシャ) B.C.500~400年頃

ガレクティ 1964年、東京大学イラク・イラン遺跡調査団(団長:江上波夫、団員:深井晋司ら)がカスピ海の南に位置するイラン・ギーラーン州のデーラマン盆地・ガレクティの遺跡を発掘し、1号丘5号墓から多数の重層貼眼玉(写真左)を発見しました。典型的なフェニキア玉で、墓の年代は紀元前5世紀ごろ、アケメネス朝時代と考えられています。埋葬されていたのは熟年男性ですが、身分は分かっていないということです。副葬品は他にも銅の腕輪、縞メノウの垂飾、金や銅の耳飾り、エジプト産とみられるファイアンスのウジャドの眼、下の写真のような細長いとんぼ玉も出土しました。これらの出土品の半分は当時のイラン国内法に基づき調査団が持ち帰り、残り半分はテヘランの博物館が収蔵しているとのことです。

ガレクティ デーラマン盆地で発掘されたこれらアケメネス朝のとんぼ玉や、他の遺跡で見つかったササン朝のガラス腕がどこで作られたのかは定かではありませんが、少なくともこの盆地で作られたものではなさそうです。この地域を実際に訪れたある日本の考古学者は、ガラス製造の工房跡が見つかっていないことや、原料になるフリットや砂をどこから手に入れたのか不明であることを挙げた上で、「デーラマン地方が存外渓谷河川沿いに四通八達した交易路、商業路のターミナルだったかもしれないとは充分考えられても、シリア海辺部のシドンやエジプトデルタ地域のアレキサンドリアといった有名なガラス工房都市(中略)などと比較しても、工房はなかなか在りそうもないように見える」と記しています。

 やはり、重層貼眼玉は当時アケメネス朝が影響下においていたフェニキアからもたらされた可能性が高いと思われます。(2007.8.5)

ペルシアの瑠璃玉 深井晋司・高橋敏 淡交社 (1986/02)

アマゾンへ 1985年2月、東京大学東洋文化研究所の深井晋司教授が亡くなりました。古代ペルシャ美術、特にガラスについての世界的権威だった深井教授は同年3月に研究所を定年退職する予定で、前年の8月から本著を出版するべく準備していたということです。没後、関係者によって刊行された本著は、全238ページの大型本で、おそらく日本で発行されたとんぼ玉をテーマにした本のなかで最も豪華で迫力のある1冊に違いありません。豊富な図版は全てカラーで非常に鮮明、解説は田辺勝美氏や谷一尚氏が執筆。主だったとんぼ玉は原寸大の実測展開図まで掲載されています。

アマゾンへ 図版で取り上げられているとんぼ玉は「ペルシアすなわちイランで出土もしくは入手したガラス玉」であり「必ずしもイランで製作されたことを意味しない」とのことで、いわゆるフェニキア玉と呼ばれている重層貼眼玉がメインです。フェニキア人は紀元前6-4世紀にはアケメネス朝に服属しており、とんぼ玉の多くはこの間にフェニキア人の支配するレヴァント地方やカルタゴからペルシアにもたらされたと思われます。参考図版にはモザイク芯玉やローマの人面とんぼ玉も紹介されています。共著者である高橋敏氏はプロの写真家であり、クオリティの高い写真集としても評価することが出来ます。(2007.7.23)

ケルト玉(ハルシュタット文化) ~B.C.450年頃

ケルト玉 1846年、オーストリア・ザルツブルク南東の村『ハルシュタットHallstatt』にある古代墓地が発掘され、中央ヨーロッパにローマ人が到来する遙か昔、ケルト人による高度な文明が成立していたことが判明しました。紀元前800年~同450年頃に、現在のオーストリアからバルカン半島北部、フランス東部にいたるドナウ川流域を中心とする広い範囲で栄えた文化は『ハルシュタット文化』と呼ばれ、スロベニア(旧ユーゴスラビア)の都市、ノヴォ・メストNovo Mesto近郊の町Brezje pri Trebelnemにあるハルシュタット文化期の遺跡からはフェニキア玉(写真右)が見つかりました。

ケルト玉  ケルト語で「製塩所の場所」という意味であるハルシュタットには岩塩の採れる鉱山があり、ケルト人はこの地で塩をつくり交易に行い、紀元前6~5世紀にはハルシュタット以外の場所でも盛んに地中海地方と交易を行っていたことが判明しています。とんぼ玉は主にフェニキア人によってもたらされたと考えられており、左の写真(プラハ国立博物館蔵)のようなとんぼ玉はケルト玉と呼ばれています。

 左下の写真もノヴォ・メストNovo Mesto近郊のSmarjetaにある遺跡から出土したガラス玉とコアガラスの破片で、右下は同じくスロベニアのグロースプリェGrosuplje近郊の古墳から出土したものです。(ウィーン自然史博物館Naturhistorisches Museum Wien蔵)

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 紀元前600年頃にマッサリア(現在のマルセイユ)にギリシア植民市が形成され、地中海沿岸からローヌ川をさかのぼる新たな交易ルートができると次第にハルシュタットは廃れていき、紀元前450年頃からは、あらたに『ラ・テーヌ(スイス・ヌシャテル湖北端の村)文化』が興隆していきました。

【古代ローマ】ミルフィオリ

roman mil1 紀元前1世紀から紀元1世紀にかけ、ローマ帝国ではミルフィオリ、リボンガラス、ゴールドバンドガラスなどのきらびやかで豪華なモザイクガラスが流行しました。大量生産が可能な吹きガラスが普及する前のことで、限られた数しかつくることができないモザイクガラスは非常に貴重で贅沢なものでした。金太郎飴の要領で、溶かした色ガラスから小さな花模様のチップをつくり、それらを平らに溶着して成型することで容器類(皿、碗、杯など)に仕上げました。この時代のミルフィオリガラスは右の写真のように破片となってしまっていることが多いのですが、完全な形で、あるいは修復可能な形で出土することも少なくありません。

roman mil モザイクガラスの技法は遅くとも紀元前3世紀ごろ、エジプト・プトレマイオス朝の時代のガラス職人によって確立され、帝政ローマ期には主にイタリアの工房でミルフィオリが製作されたと考えられています。左の写真は2009年4月、ロンドン博物館によって公開されたミルフィオリ碗で、ロンドンの墓地から細かく割れた状態で発見されたものを復元したものです。

 ローマ帝国の分裂後、ミルフィオリの技術はほぼ断絶してしましますが、近世になるとベネチアで復活し、この技法を使ったトレードビーズが大量にアフリカへの貿易品として生産・輸出されました。(2010.2.1)

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【古代ローマ】 労働者のビーズ

ベス 2008年6月、ローマ・フィウミチーノ空港近くで見つかった1世紀後半から2世紀ごろの墓地に、重労働に従事していた労働者(または奴隷)が多数、埋葬されていたことが分かりました。発見された人骨約300体のうち約7割が成人の男性で、背骨に損傷が見られることから、港湾から荷揚げされた重い荷物や塩の袋などを背負って運んでいた可能性があるということです。また、子どもの墓からは、黄金のイヤリングや銅の指輪、ファイアンスのベス像、琥珀や貝のビーズでつくられたネックレス(右の写真)が出土しました。帝政ローマ期の特権階級ではなく、庶民の生活を知る手掛かりとなる貴重な資料で、特に民間で信仰されていたエジプトの魔除けの神様であるベスが埋葬されていたことは、非常におもしろい発見です。(2008.6.15)

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【古代ローマ】 帯状モザイク玉

roman beads 右の写真は帯状モザイク三角玉と呼ばれるローマ時代を代表するとんぼ玉の一つです。写真の玉は銀化が進んでおり判別が困難ですが、帯は鮮やかな青色であることが多いのがこのとんぼ玉の特徴です。『世界のとんぼ玉』では人面とんぼ玉やゴールドバンド玉、ゴールドサンドイッチ玉と並んで掲載されており、同書には佐野公代コレクションのネックレスなどが紹介されています。このとんぼ玉は縞メノウを模したデザインとされ、現在のイランで発掘されることが多いとのことです。イラン高原出土のとんぼ玉をまとめた『ペルシアの瑠璃玉』にも同様のとんぼ玉が掲載されています。(2008.08.25 関連記事:壺型とんぼ玉労働者のビーズ)

【古代ローマ】 壷型とんぼ玉

 右の写真は帝政ローマ期(紀元前27年~紀元後395年)に地中海東岸、現在のレバノン、イスラエル、シリア、ヨルダン付近で製作され流通していた容器型とんぼ玉です。取っ手が一つあり、網のようなジグザグの透かし模様が胴体部分を包んでいるのが特徴で、口から内部が空洞になっているタイプと、ふさがっているタイプがあるようです。写真は空洞タイプで全長約2.2センチ、空洞部分は口から約1.2センチです。日本では類品が、横浜ユーラシア文化館や羽原コレクションに収蔵されています。


ルーブル美術館のある研究員の解説によると、空洞タイプは
 ①エルサレム
 ②ヨルダン川西岸のサマリア
 ③アンマンの北約110キロの都市ウンム・ケイス(旧ガダラ)
などから出土し、ふさがっているタイプはイスラエル北部の都市ナザレで出土しているとのことです。古代ギリシャで葬祭用の供物としてつかわれた陶器製の香油瓶『レキュトス』のような形をしていますが、ローマ期には他にも左の写真の様な色々な形の壷をかたどった思われるとんぼ玉が発掘されています。(2007.6.1)

芹沢銈介コレクション

 民芸運動に深い影響を受け、自らも世界各地の民芸品を蒐集した染色工芸家・芹沢銈介氏(せりざわ・けいすけ 1895-1984年)。芹沢氏のコレクションには、民芸運動を始めた柳宗悦らがほとんど蒐集しなかったアフリカや南アメリカの民芸品が含まれています。アフリカや世界各地のとんぼ玉もあり、それぞれの地域、時代を代表する逸品を、一粒ずつではなくまとまった連(ネックレス)の状態で収められているのがコレクションの特徴になっています。芹沢氏は時代や民族、地域ごとに異なるとんぼ玉の配列や、連が持つ力強さ、存在感に惹かれていたのだと想像できます。

 【過去記事】芹沢氏とアイヌ玉については→《民藝 387号》あいぬ玉 1985.3

 右上の写真は東北福祉大の芹沢銈介美術工芸館発行『芹沢銈介コレクション』の1ページですが、シェブロン玉やキングビーズ、六角平面のミルフィオリなど見事です。また、1979年にサントリー美術館で開かれた『芹沢銈介の蒐集 その一部展示』の図録(写真左)には典型的なバンチェン玉台湾とんぼ玉ナガ族の連が掲載されています。図録のキャプションには「ネックレス アフリカ各地」あるいは「装身具」と記されているだけで、詳しい出所は書かれていません。

 これは芹沢氏が美術商からモノを買うときに出自をまったく気にせず聞かなかったことに関係しているかもしれません。芹沢氏に「約十年間、三ヶ月に一度はお訪ねし、持ち込んだ物も何とかほとんど買ってもらえるようにはなった」という古美術坂田(東京・目白)の坂田和實氏によると、「芹沢さんは品物の肩書き、つまりどの時代に、どこの国で、何に使ったかというような出自を一切問わなかった」ということです。坂田氏は初めて品物を持ち込んだときの様子を次のように述べています。

ひとりよがりのものさし 「二十六年前、いかにも芹沢さんの好みそうなエチオピアの木製十字架を手に入れたので、骨董界の伝説的な人物に会える良いチャンスだと思い、紹介もなしに直接電話をしてみると、電話口に出てきたのは御本人で「ハイハイ、どうぞ持ってきて見せて下さい」と拍子抜けしそうな返事。こちらはまだ若かったし、最初の訪問ということでついつい力も入って、品物をゴッソリ持ってお伺いした。挨拶もそこそこに、さっそく品物を取り出すやいなや、くだんの十字架一点だけを取り上げて「これは良い、嬉しいネ、有難う、じゃ」と他の品物には眼もくれず、サッサと奥の部屋へ入られたのには参った、参った。せっかくこれだけの量を持ってきたのにとは思ってみても、一瞬の眼の勝負、とにかく説明が全然効かない、価格の安さが効かない、情も効かないのないないづくし。」(坂田和實「ひとりよがりのものさし」新潮社 pp.58-59)

 東北福祉大の図録によると、芹沢氏がアフリカの原始美術に強く惹かれはじめたのは1966年、71歳になって初めてヨーロッパ旅行をしたときからということです。それまでも暇さえあれば古美術・骨董店をめぐり民芸品を蒐集していましたが、アフリカの収集品は晩年になってから集められたものが多いという事です。

 芹沢氏の長男で考古学者の長介氏は「85歳を過ぎてからの銈介は、小川弘氏(編注:東京かんかん)がアフリカに渡って集めて来られたさまざまの木工品、衣類、マスク、家具、ビーズ、大壷等々にかこまれ、(中略)幸せをしみじみと味わっていたに違いない」と述べています。

芸術新潮 2009年 04月号 [雑誌] 民芸運動を担った陶芸家の濱田庄司は「自分の目で自分らしく物を見ることができれば、これは一つの創作といっていい」と述べていますが、芹沢氏は柳らとは違いアフリカのモノを積極的に取り込むことで独自のコレクションを作り上げました。古美術評論家の青柳恵介氏は芹沢氏の蒐集についてこう述べています。「洗練された美の静謐を破る雑多なもののエネルギーを芹沢は求めたのであろうか。出来上がってしまった茶の湯の美意識、民藝の美意識を、アフリカやインカの工芸の原始性を梃子にして、もう一つ先に転がしてみたいという願いが芹沢銈介のコレクションから見てとれる。」。確立された美意識をもう一つ先へ。この芹沢氏が創造した蒐集は一つの美の基準となり、次の世代の美術商、骨董商、コレクターに大きな影響を与えることになりました。(2009.8.1)

平山郁夫コレクション

http://blog-imgs-37.fc2.com/b/e/a/bead2/IMAGE0568s.jpg" alt="IMAGE0568.jpg" border="0" width="200" height="150" align="right"/>">平山郁夫コレクション 日本画家の平山郁夫氏が2009年12月2日、脳梗塞のため亡くなりました。平山氏はシルクロードに魅せられ、オリエント対して熱い情熱と深い関心を持たれていました。山梨県北杜市にある平山郁夫シルクロード美術館には、素晴らしいガラスコレクションがあり、それは山川出版社の「シルクロードのガラス」にまとめられています。

シルクロードのガラス―時空を超えた魅惑の輝き (MUSAEA JAPONICA) この本で平山氏は古代ガラスについて次のように述べています。「メソポタミアや古代エジプトでは多様な美しいガラスを作り出した。このガラスは王侯クラスの人たちが、各人のステイタスとして身の回りで用い、身につけていたようだ。紀元前2000年紀より、さまざまなガラスの製法が考案され、さまざまな用途なものが作られている。さらに時代が進み、古代ローマ期に到ると、ローマングラスとして美しく造形的であり、芸術性の高いガラス器を遺している。また遺跡から出土したガラス器は、銀化による不思議な時代色を帯び、さらに付加価値として眼を楽しませてくれるのである」

 平山コレクションは、MIHO MUSEUMと並び、日本最高峰のコレクションだと思います。とんぼ玉はもちろん、器や小瓶など、シルクロードの始まりから終わりまでの地域と時代を網羅したものです。この本から“時空を超えた魅惑の輝き”が伝わってきます。(2009.12.5)

川田順造コレクション

 レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の翻訳などで知られる文化人類学者、川田順造氏。西アフリカ内陸でのフィールドワークの傍ら、とんぼ玉を蒐集してきたことで知られています。コレクションの一部は由水常雄氏「とんぼ玉」に掲載されているほか、古美術雑誌や著作集でもコレクションについて触れています。

 1976年9月号の「小さな蕾」には「アフリカのトンボ玉」と題した文章が掲載され(写真)、1995年に発行された著作集「アフリカの心とかたち」に再録されています。76年当時の文章と、95年の再録時の文章には若干の違いがあり、その手直し、追加部分からは約20年間のコレクションの歩みを伺い知ることができます。

 例えば、76年には「折にふれてぽつりぽつり買っていたのが、いつのまにか小さなボール箱にいくつかたまった」とあるのが、95年には「いつのまにかボール箱いくつかにたまった」とあり、「小さな」が省かれています。20年間とんぼ玉を集め続け、その量も格段に増えたのだと思います。また、追加部分として、「私のコレクションの中にも、白く風化した古代フェニキアあたりのものかと思われるガラス玉も混じっている」と珍しいとんぼ玉について特記しています。

 そして締めくくりには、「とにかく玉というものには、それを手にした人の心を、前後の見さかいなくとりこにしてしまう不思議な魅力があり、だからこんなにも世界中に散らばったのであろう。玉に見入るうちにたまに魅入られる-私もそのとりこになった一人だ」と付け足しており、とんぼ玉に魅了されてしまった思いを率直に書き綴っています。(2009.7.1)

ベネチア玉 J.F.Sick & Co.

The Bead Goes on: The Sample Card Collection With Trade Beads from the Company J.f. Sick & Co. in the Tropenmuseum, Amsterdam 主にアフリカとの貿易のためにベネチアで作られたとんぼ玉。アフリカントレードビーズ(African Trade Beads)とも呼ばれています。シェブロン、ミルフィオリ、オッキオ、ピュマータなど色、形、模様は本当に多種多様で数多くの文献がありますが、その決定版とも言える本『The Bead Goes on: The Sample Card Collection With Trade Beads from the Company J.f. Sick & Co. in the Tropenmuseum, Amsterdam』が出版されました。1910年ごろから約50年間、西アフリカにおけるとんぼ玉流通の95%を支配していたという商社『J.F.Sick & Co.』のとんぼ玉サンプルカードの写真がDVD-ROMで付いてきます。収録されているとんぼ玉の数はなんと約2万2千!。すべての玉に番号がふられていて、とんぼ玉がサンプルカードに加えられた年代も分かります。

 Sick社は1910年ごろ、ドイツ・ハンブルグに本店がオープンし、とんぼ玉の大生産地であるベネチアとチェコ・ヤブロネツに支店が開設されました。第一次大戦後、ドイツ敗戦にともない本店がロッテルダムに移転。ハンブルグは支店に格下げされました。その後、1927年に本店がアムステルダムに移転し、ロッテルダムは閉鎖。アフリカではナイジェリアに5ヵ所、ガーナに4ヵ所、カメルーンに2ヵ所、事務所が置かれ、20世紀前半の西アフリカにおけるもっとも重要なとんぼ玉卸商社としての地位を築きあけました。そして1964年にベネチア支店が閉鎖されるとき、アムステルダムの本店に保管されていたサンプルカードが、オランダ王立熱帯研究所(Royal Tropical Institute)の熱帯博物館(Tropenmuseum)に寄付され、そのカードを接写した写真を収めたのが本書のDVD-ROMです。

 海外ではこのSick Collectionがベネチア玉研究の基礎となっており、「Sick Collectionの●●番」といった形で玉の模様の特定すら行われています。この本が出版され、手軽に(値段はお手軽ではありませんが)データが入手できるようになったことから、今後は日本でもアンティークとんぼ玉の取引や研究にこのサンプルカードの番号が用いられることになるかもしれません。(2007.6.3)

ボヘミア・ロシアンブルー(Russian Blue)

 右の写真はロシアンブルーと呼ばれるボヘミア産(現在のチェコ共和国)のビーズです。主に19世紀前半に西アフリカで黒人奴隷と交換されたビーズで、アラスカなどアメリカ北西部の太平洋沿岸地域でも先住民との毛皮貿易で使われてきました。ロシアンブルーという名前は、アラスカのビーズ収集家が付けたということです。

 このビーズが作られた1800年代、ヴェネチアにはガラスの菅玉をカットする研磨機を回転させる安価なエネルギーがありませんでしたが、ボヘミアには水車を回すための豊富な水力があり、このような多面体のビーズを大量に生産することができました。ボヘミアで作られたビーズが西アフリカに運ばれたルートは、他のトレードビーズと大きな違いはないと思われますが、どのようにアメリカ北西部まで運ばれたのかについては、現在でも幾つかの説があります。

 まず、1700年代前半にロシア人・ヴェーリングがアラスカを発見して以来、毛皮貿易を仕切り、現地のロシア領を統治していたロシアの会社(Russian America Company)が、貨物列車によってヨーロッパ各地で売られていたボヘミア産のビーズを買い、シベリア鉄道でシベリアやアラスカにもたらした、という説があります。しかし、ある著名なビーズ研究家によると、ロシアンブルーはロシア人と先住民の交易場所だった遺跡からは見つかっておらず、ロシア人の交易が途絶えた後にアメリカ人やイギリス人によってもたらされたとしています。この研究家は、そもそもロシア人がロシアンブルーを扱った事実すらなく、この名前は非常に誤解を招きやすいとしています。

 一方で、アメリカ・カナダ側から流入したという説によると、1670年に設立され、現在でもカナダの老舗デパートとして有名なハドソンズ・ベイ・カンパニー(Hudson's Bay Company,HBC)が流通の拠点だったということです。ロシアンブルーなどボヘミアやヴェネチアのとんぼ玉がアラスカだけでなく、古くからHBCの商圏であった五大湖周辺の先住民の間でも流通していたことが一つの根拠となっています。

 さらに、北米の毛皮貿易の研究者によると、この説を裏付ける資料がHBCに残っており、HBCはハドソンベイビーズ(Hadson Bay Beads ホワイトハーツ、イエローハーツのこと)6つ、パドレビーズ(Padre Beads)3つ、青い透明の大きいビーズ(ロシアンブルー?)2つとビーバーの加工済みの毛皮1匹分を交換していたという事実が判明しました。

 HBCによると、HBCは1733年にカナダ・オンタリオ州のAlbany Fortという地区で、色が付いているビーズ3/4重量ポンド(約340㌘)とビーバーの毛皮1匹分を交換していたということです。ただし、そのビーズがロシアンブルーか、パドレビーズなのか、あるいはホワイトハーツなのかについては明確ではありません。1700年代前半という時期を考えると、パドレビーズである可能性が高いと思われますが、このような交易の延長で、1800年代後半にロシアンブルーが流通したと考えることができると思います。

エチオピアンチェリー (Ethiopian Cherry)

エチオピアンチェリーエチオピア地図 左の写真はエチオピアンチェリーとよばれるボヘミア(チェコ中西部)製のガラス玉。ホワイトハート、ロシアンブルーなどと並び、交易ビーズを代表する単色とんぼ玉の一種です。輝くような深い赤と、サクランボのような安定感のある丸い形が特徴で、主に19世紀以降、エチオピアなどアフリカ東部で流通していたと考えられています。

 アフリカ諸民族の装飾品をテーマにした写真集「Africa Adorned」などをみると、アフリカ西部の象牙海岸付近ではミルフィオリなど多彩なとんぼ玉が多くみられ、少し東に入りカメルーンなどではシェブロンが好まれていることが分かります。さらに東に進みスーダン、エチオピア、ケニアなどでは単色のビーズが装飾品として多く消費されてきました。アフリカ東部でもシェブロンやオッキオなどは少量流通しましたが、非常に貴重なものとして大切にされています。

色―世界の染料・顔料・画材 民族と色の文化史 このエチオピアンチェリーの魅力は、何よりその深紅の色にあります。「色―民族と色の文化史」によると、象徴的意義がとても広い赤色は、たくさんの儀式で使用され、女性の豊穣性や男性の力強さを示しているということです。また集団の結束を強めたり信仰対象の力を強くしたりする儀式にも用いられるということで、アフリカ各地ではとても大切にされています。

 ボヘミアでガラス玉作りが始まったのは17世紀。18世紀になるとヨーロッパ市場向けにビーズを輸出します。そして18世紀最後の四半世紀(1775-1800年)に、ガーネットをまねた赤いビーズを作り始めたことが知られており、このエチオピアンチェリーもその延長上に位置付けられています。(2009.6.27)

キッファビーズ(Kiffa Beads, Mauritania)

kiffa.jpgMuritaniya 左の写真は20世紀前半にモーリタニアのキッファという町でつくられたとんぼ玉で、『オールドキッファ』と呼ばれるものです。その存在は1949年、フランスの民族学者R.Maunyが報告し、1980年代に、アメリカのコレクターがキッファビーズと名付けました。1980年代以降、キッファビーズはアメリカのビーズ研究の大きなテーマになり、多くの研究者やコレクターがこのビーズを求めてモーリタニアに旅立ちました。

 ヴェネチアやオランダのとんぼ玉を粉砕したガラスを原料にしてつくられており、技術的にも優れ芸術的価値が高く評価されています。粉のガラスを比較的低温で成型しているため、もろくなってしまい、完全な形で残っている物は数少ないということです。独自の模様ですが、もともとは古代のイスラム玉をまねてつくられたという説があります。コレクターの人気が高いため、近年では現地の女性グループが再びつくり出しましたが、質は古い物に及ばず『ニューキッファ』と呼ばれ古いものとは区別されています。また、最近ではインドネシアなどでもガラスや他の素材で模倣品がつくられています。(2006.11.22)

アフリカ・カメルーン Semi-Bantu,Cameroon

cameroon0カメルーン地図 左の写真はアフリカ・カメルーン西部のバメンダ高原(グラスフィールド)に住むバンツー系部族の女性と赤ん坊です。1900年代前半、フランス人によって撮影された写真で、母親の乳を吸う赤ん坊の首には立派なシェブロン玉の首飾りが確認できます。バンツー系部族はバミレケ族、バムン族、ティカール族などに分かれますが、バミレケ族のシェブロン玉の首飾りは日本の国立民族学博物館にも収蔵されています。

cameroon_beads.jpg バメンダ高原には首長国が200以上あり、それぞれの国は川筋や尾根道でつながり交易が行われてきたということです。高原の南に位置しギニア湾に面する港町ドゥアラDoualaには、1900年代前半、ベネチアやボヘミアのとんぼ玉を扱う商社『J.F.Sick & Co.』の事務所が開設されており、交易を通してこの高原の部族までシェブロン玉がもたらされたと考えられます。Sick社の拠点から比較的近かったためか、首飾りにシェブロン玉が豊富に使われているのが特徴です。(2007.8.17)

アフリカ・ベルベル人 Berbers,North Africa

北アフリカ地図 左の写真は北アフリカ(エジプト西部の砂漠地帯からモロッコまで)に住むベルベル人(Berbers)のアクセサリーで、ベネチア製のとんぼ玉(シングルモチーフのミルフィオリ)が銀の線条細工(Filigree Work)に組み合わされています。モロッコではエナメルで模様を施した銀細工がベルベル人の装飾として有名ですが、エジプト周辺では銀の線条細工がベルベル人のアクセサリーに使われています。写真の垂飾は先日、エジプト・カイロにあるベルベル人のアンティーク装飾品を扱う店で入手したものです。

berber2.jpg ベルベル人は主にイスラム教を信じる非アラブ系の先住民族です。線条細工は、イスラム教の影響で生き物を模様として表現することを避け、直線や円、らせん、唐草模様といった抽象的な形を作り出すのに向いています。アフリカからヨーロッパやインドへ抜ける貿易路の中継地として栄えたエジプトで金や銀細工の技術が発達し、線条細工も盛んになったということです。 貿易でもたらされたとんぼ玉と、地元の銀細工の技術が融合した興味深い装飾品です。 (2007.9.10)

17世紀のビーズ スペイン船貿易<米・中・フィリピン>

beads-spanish-empire.jpg National Geographic電子版によると、17世紀に世界中から集められた7万点に及ぶビーズがアメリカ・ジョージア州で発掘された。見つかったのは同州のセントキャサリンズ・アイランド。中国フィリピンの首都マニラとの交易でスペイン船が立ち寄る寄港地だった。発見されたビーズは形状や色、大きさ、材質が驚くほど多様であり、17世紀におけるスペイン帝国の勢力範囲がいかに大きかったかを物語っているという。研究チームによってこれまでに発見されたビーズは約130種。種類によっては最大2万点に及ぶ。

 このプロジェクトはアメリカ自然史博物館の支援を受け、現在も調査が続けられている。 同誌によると、アメリカ自然史博物館の考古学研究所長ロラン・ペンドルトン氏は 「イタリアやフランス、オランダといった有名生産地で作られたビーズと一緒に、スペインでもビーズが作られていたことを示す、おそらく初めての証拠も見つかった」と説明している。

<写真のビーズの説明>
上列中央:中国で作られた緑色の芯巻きビーズ。
下列右:波形や玉の装飾が施されたスペイン製の十字型マンガン黒色ガラスビーズ。
上列右:フランス製と考えられる黄緑色の玉で飾られた吹きガラスのビーズ。
上列左から2番目:スペイン製と考えられるカットクリスタルのビーズ。当時のベネチアやフランスで作られていた標準的なクリスタルのビーズと比べて質が劣悪なため、スペイン製と推定される。 (2009.10.4)

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江戸とんぼ玉

 町人が文化の中心となって芸術、娯楽、経済、物流が非常に活発になった江戸時代(1603-1867年)。町人の間では「印籠・巾着」「煙草入れ」「簪・櫛」などの提物(さげもの)や髪飾りが流行し、玉の需要が大きく増加しました。明治時代に書かれた黒川真頼著『工芸志料』(1878年)などによると、徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長年間(1596-1615年)に印籠や巾着を腰につけるのが広まり始め、その後寛文年間(1661-73年)に煙草入れが流行、玉はこれら提物の緒締(おじめ)として需要が急増しました。江戸後期になると、印籠は上級武士や富裕な町人だけではなく広く町民の間でも使われるようになり、文化年間(1804-18)には女性が簪や櫛に玉をつけるのが江戸・大坂・京都の三都をはじめ各地で流行したということです。
 
 玉の材質は水晶、瑪瑙、珊瑚、象牙、貴石、そしてガラスなど多岐にわたり、模様や形も様々な工夫がなされました。庶民があまりにも玉に財産を費やすため、1838年には徳川家慶が櫛や簪、煙草入れなどの翫物に珊瑚玉などを豪華な装飾を施すことを禁じるお触れを出したことが徳川禁令考などの資料からうかがい知ることができます。
 
 江戸時代には、玉の名前が材質や模様によって細かく分類されました。1781年に大阪の古物商・稲葉新右衛門によって書かれた『装剣奇賞』は、同じガラス玉(吹きもの)でも、「筋玉、雁木玉、トンボ玉、印花玉、糸屑玉」などと模様によって区別し、「トンボ玉」を「是も吹きものなり。但、地は虫の巣の如き薬にて色は浅黄萌黄などあり、紋は椰子の紋、又は散り桜のごとき花見えたり」と定義しました。(装劍奇賞の実物は『根付のききて』さんのサイトで見ることができます)

 由水常雄著『トンボ玉』によると、江戸時代にとんぼ玉の製作が最も盛んだったのは大坂で、「今日残っている江戸トンボ玉の大半は大坂の玉造や泉州で作られたものと考えていいであろう」と述べています。大坂の職人は技術も最も優れていたようで、前出の『工芸志料』は「ガンギ玉及びトンボウ玉を模造することは、其の始め大坂の工人某の発明する所に出づるなり」としています。

 江戸時代、国内でガラスが作られるようになったのは長崎が最初だとされています。1573年に肥前大村藩主・大村理専が長崎にオランダ人との貿易港を開設し、その後しばらくしてガラス玉をはじめとするガラス製法が渡来したと思われます。記録としては元和年間(1615-23年)に長崎商人・浜田弥兵衛が国外に渡航し眼鏡製作方法を学び、帰国後に生島藤七にその技法を伝えたことが西川如見著『長崎夜話草』(1720年)に記されています。生島藤七はさらに国内で南蛮人ガラス工からも技術を学び、長崎で念珠・スダレなどをつくり『多麻也(たまや)』と呼ばれるようになったそうです。

 寛永年間(1624-44年)には中国からガラス工が長崎に渡来、ガラス玉の技術を伝えました。『工芸志料』は「長崎の工人、或いは南蛮法に従うものあり、或いは支那法に従う者あり、或いは南蛮法と支那法とを混淆して伝うるも者あり」と説明しています。長崎のガラス製造技術はその後、大坂や江戸に伝えられたということです。

 杉江重誠編『日本ガラス工業史』(1949年)の「第二章 徳川時代のガラス渡来と発達」によると、長崎から大坂にガラス製造が伝えられたのは宝暦年間(1751-64)、長崎商人・播磨屋清兵衛が大坂に移り、北区天神橋筋に工場を設けてカンザシや盃などをつくり始めたのが最初で、同著は「大阪でガラスが製造されたのはこれが最初である」と言い切っています。しかし、1732年に三宅也来によって書かれた『萬金産業袋』には既に「中頃摂州大阪に名人出来、右のとんぼ玉をつくり出せし」という記述があり、播磨屋清兵衛の来坂よりも前にとんぼ玉が大坂で作られていたことが分かります。現在では少なくとも正徳年間(1711-16年)には長崎のガラス製法が江戸や大坂に伝わっていたとされており、さらに大坂のとんぼ玉づくりについては長崎の玉づくりとはルーツを異にするという見方がでています。

 例えば、神功皇后(170-269年)の時代に高麗からガラス玉製法が伝わり、それが明治に到るまで密かに連綿と続けられていた、という説があります。おなじ『日本ガラス工業史』でも「第一四章 その他のガラス工業の発達」では、大坂・泉州のとんぼ玉づくりについて「神功皇后が三韓征伐から帰らるる時、高麗から玉を製作する技術者をつれ帰り、浪速朝廷の地に近い堺市で技法を日本人に伝授せしめたのが、その嚆矢であるといい伝えられている。明治初年頃にもこの地にガラス玉製作の技法が残ってい」たと述べています。この説と一部符合するのが、7世紀後半の奈良・飛鳥池遺跡から見つかったガラス坩堝やガラス玉鋳型で、日本でも古くからガラス玉が生産されていたことが確認できます。

 また、大坂のガラス玉には限定されていませんが、12世紀ごろに中国・宋からガラス製法技術が伝わったとする見方もあります。中山公男監修『世界ガラス工芸史』(2000年)によると、「近世日本のガラス組成は、鉛の含有量が45%程度の、高鉛ガラスである。当時ヨーロッパで作られていたガラスは主としてアルカリ石灰ガラスで系で、原料調合法が日本の物と全く異なっている。金属鉛を溶かし、石粉を附着させ、そののち硝石も加えるというもので、このような製法は、中国宋時代の方法と類似していることから、12世紀頃に中国から伝来し、明治に到るまで秘伝として伝えられたと思われる」と述べています。江戸時代の「トンボ玉」という名称と、中国の乾隆玉に影響を受けたと見られるその意匠から、江戸とんぼ玉と中国との関係は深いとみられ、大坂の江戸とんぼ玉のルーツを中国に求めることは自然だと思われます。

 その他にも、長崎で行われていた玉づくりの製法と、大坂・和泉での玉つくりの方法が大きく異なるという指摘もあります。各務鑛三著『硝子の生長』(1943年)は、昭和初期に泉州・信太村で盛んにされていた玉づくりと、江戸後期の『長崎古今集覧名勝図絵』にある長崎での玉づくりを比較し、長崎の方がオートマチックな設備を採用しており遙かに能率的だとしています。

 いずれにせよ、大坂の玉造や泉州で盛んに作られていたとんぼ玉の起源ははっきりとは分かりませんが、長崎の技術とは異なるルーツを持っていると考えるのが妥当のようです。ガラス研究家のなかには、江戸時代のガラス製造は長崎から始まったという説を否定し、大坂が製造開始の地であるとする見方すら存在しています。

大阪・泉州のとんぼ玉

 大阪・泉州地域でのとんぼ玉づくり。1949年に大阪で発行された杉江重誠編集『日本ガラス工業史』にはガラス産業の発展の歴史が詳しく記されており、泉州玉・さかとんぼの起源についても次のように説明しています。

  『大阪府の和泉國、今の堺市付近では昔からガラス玉が作られ、泉州玉と呼ばれて有名であった。この泉州玉の由来をたずねると、神功皇后が三韓征伐から帰らるる時、高麗から玉を製作する技術者をつれ帰り、浪速朝廷の地に近い堺市で技法を日本人に伝授せしめたのが、その嚆矢であるといい伝えられている。
 
 明治初年頃にもこの地にガラス玉製作の技法が残っていて、泉喜三郎、柴田寅吉などは専ら神仏装飾用及び念珠玉或いは玉簾などを製作していた。明治10年(1877年)頃この和泉國泉北郡池上村に農を業としていた神山喜代松は、ガラス玉製造の有望なるに着目し、自ら柴田寅吉についてガラス玉の技法を習得し、帰村の上その製造に着手した。その時の製品は全部柴田寅吉に渡して売り捌いていたが、当時としてはその工賃は極めて有利なものであった。この時彼の従弟に当たる藤原政太郎も彼から技術の伝授を受けて製作していたが、諸物価の安い当時片田舎で行われた農村の副業としては甚だ有利な仕事であったので、村民から技術の伝授をせまられ、遂にそれに応じて技術を公開した。これが和泉國にガラス玉製造の発展した元であった。

 当時は交通も不便であったから需要地である京都へ運ぶにも、大阪の天満まで運び八軒家から淀川上りの川舟に積み込み、伏見の浜から京都の問屋へ送り届けたのであった。

 一方、大阪の玉造の地で明治十年頃、小林吉兵衛(明治40年3月11日歿)はタバコ入れの緒締をガラス玉で製造したほか、吉兵衛自ら金型を作り、型ものと呼ばれる押型オモチャも作っていた。さらにその後明治15年(1882年)には我国で始めてガラスで模造宝石を製作した。従って小林吉兵衛は、現代日本のガラス工業の草分けの一人というべきである。そしてその弟子であった加藤達は、明治32年(1899年)の頃ガラスの置物や色ガラスの玉をつけた花針と待針を作った。これがガラス玉付き待ち針の嚆矢であったといわれている。

 このようにして、さきの神山喜代松と小林吉兵衛のガラス技術は、その弟子達を通じて次第にひろまり、ここに和泉國信太村のガラス玉類は、その地の特産品として有名になった。』

 明治時代にこの地域でとんぼ玉がどのように作られていたかは、アイヌ芸術研究者・杉山寿栄男氏が『アイヌたま』に詳述しています。杉山氏は昭和初めごろに「河内国泉北郡葛ノ葉村」でとんぼ玉づくりを実見し、その様子をまとめています。まず、昭和初期に実際に行われていたとんぼ玉の製作方法についての説明です。

 『棚と机を兼ねた如き細工台の箱が置かれて、左方にアルコールランプがありAB二線のゴム菅の下部が石油缶に入り、フイゴの先に竹の棒が結びつけられて、これを足で踏むと、フイゴの空気は石油缶に入って圧搾され、その空気はAから入ってはアルコールランプの火力を強くし、Bに通ずるものは、玉の冷却に使用するように出来ている。

 職人は箱に腰をかけて、この火口に針金の如き細き一尺位の串の棒を鉄火に炙りつつ、一方右手に硝子の材料である一尺位の硝子の棒を火に炙りつつ、左手の鉄串を回転している内に、硝子は溶け始めてこの鉄串に巻きつき、適宜の玉が作り出される。これらの玉を造るには、他に何等道具を使用せず、一定の丸さの玉が炙り出されるので、たまたま丸みの不正の時には、傍に薄い鑢があってそれで修正する。またみかん玉を作る時にも、玉の軟らかい内にこの鑢の薄い刀の面で玉に筋を入れれば、みかん玉状の筋玉が得られるので、このひとつの串に団子の如く幾つも並列されるものである。この鉄串には最初に房州砂(人によっては荒木田土)の如き石粉が塗布されて、この玉が冷却してから、この鉄串から容易に抜き取られる様、この粉が附されるので、よく古い玉の孔口の内に、この白粉が残されてある。これら一つの鉄串に綴られた玉は下部の藁灰の箱に入れられ、玉が冷却してから、この串を抜きとるのである。』

meiji.jpg 明治初年ごろは『大体その製作法は同一であるが、液体燃料使用と固体の炭やコークス燃料の相違は古くは窯の応用となっている。』ということです。
 
 具体的には、(1)のAにガラスの原料を入れて溶かし、(2)のように巻き付け、(3)で形を成型し、(4)のように藁灰で冷却する。(5)で玉を串から抜き取り、鉄串の先に金剛砂をつけて孔口の修正をしたら完成という一連の作業の流れが説明されています。

 (3)のように半球の鉄型で作られたものはアイヌのとんぼ玉の古いものにもあって、両面から張り合わせてようなものはこの型によって作られたものだと考えられるそうです。

《小さな蕾 No.458》 とんぼ玉に誘われて

 2006年9月号の古美術・骨董情報誌『小さな蕾 No.458』にはとんぼ玉が特集されています。ガラス研究家として著名な加藤孝次氏がどのようにとんぼ玉に魅せられていったのかについて記した「とんぼ玉に誘われて」というエッセイと、コレクションの写真が掲載されています。表紙には乾隆玉江戸とんぼ玉などが映っています。また、「江戸とんぼのいろいろ」と題された4ページのコーナーにはガンギ玉や法隆寺玉、筋玉など代表的な江戸時代のとんぼ玉が15種類ほど、写真付きで紹介されています。

 アマゾンから購入することが出来ます。

日本・アイヌ玉 (シトキ・タマサイ) Ainu,Japan

 左の写真は盛装しているアイヌ女性(アイヌメノコ)です。女性の首飾りの中央にある金属製の飾板をシトキといい、転じて飾板のある首飾り全体がシトキと呼ばれています。内側の玉だけのものはタマサイ(玉サイ・玉彩)といい、シトキは重い宗教的儀式に用い、タマサイは盛装した時、あるいは普通の儀式に使われたということです。アイヌ女性にとって玉類はとても大切なもので、祖母から母へ、母から娘に女の魂として代々伝えられ、家の上座にある宝物座の玉手箱などに安置されていたということです。

 首に直接巻き付けられているのはレクトゥンペという飾り布で、金属製飾板が縫いつけられています。レクトゥンペが本来の『首飾り』であって、シトキ・タマサイは『胸飾り』といった方が正確かもしれません。鉢巻きはマタンプシといい、明治の中頃までは男性だけが仕事の時に髪が乱れないように頭に巻いていました。

 シトキは人体に見立てられ、個々の玉に名前があるといいます。心臓にあたる飾板「シトキ」のすぐ上はサパネタマ(親玉、頭玉)、さらに上にいくに従いレクツンタマ(頸玉)、ペンラムタマ(胸玉)、ツマムタマ(胴玉)、テクンタマ(手玉)、ケマウンタマ(足玉)などと呼ばれ、タマサイは中央の大きな玉がヌムンタマ(核玉)、ポロヌムタマ(大核玉)と呼ばれるそうです。
 
 個々の玉の形、大きさ、色、模様は多種多様で、杉山寿栄男著『アイヌたま』は「アイヌの玉の色彩は多種多様であるが、地が浅葱色(あさぎいろ)の玉がもっとも多い。故にアイヌ玉といえば、すぐにこの無地の浅葱色でもって代表させて考えた傾向があるから、従来アイヌ玉は無地玉ばかりであると書かれたものであった」と説明しています。

DSCN59950001.jpg さらに「浅葱色の表面に製作する時の気泡が穴となって表面に所々残ったものを一名「虫の巣玉」と呼ぶ」と解説しています。この虫の巣玉は江戸時代、煙草入の緒締などとしてとても珍重されていたそうで、18世紀前半の本にも「むしの巣、色浅黄色にてすきは通らず。蝦夷にて製す。つくり物なり」と記されています。

 実際には後述のように蝦夷では作られておらず、山丹交易(サンタン交易)でもたらされたものだと思われますが、「つくり物なり」という説明が重要で、かつて松前藩がこの玉を徳川綱吉(在職:1680-1709年)に献上していたところ、生類憐みの令のご時世、本当に虫の巣であったらまずいということで、問題になったことがあるそうです。 

 虫の巣でないことを明らかにするため、松前藩では玉を火に入れて検証したことが18世紀初頭の記録に残っており、この話は1919年に発表された宮本百合子の小説「津軽の虫の巣」の題材にもなっています。

 国立民族学博物館の解説書「ラッコとガラス玉」などによりますと、実際に確認できるアイヌの最も古いガラス玉は、現在新千歳国際空港の滑走路となっている千歳市美々8遺跡のもので、1667年までと、1739年までの地層からガラス玉が30個ほど出土しています。18世紀から19世紀にかけ山丹交易が活発になり、アムール川流域の山丹人の手を経て主に中国製のガラス玉がアイヌの手元に蓄えられ、虫の巣玉などが松前藩などを介して本州にもたらされたということです。

 1800年代以降は江戸や大坂などでとんぼ玉が豊富に生産されてアイヌ社会にもたらされました。現在各地にコレクションとして残されている大玉や派手なとんぼ玉を綴った首飾りの多くは、明治末から大正時代にかけてアイヌ観光の興隆に伴って蓄積されたものだということです。

《民藝 387号》 あいぬ玉 1985.3

mingei.jpg 1985年、日本民藝協会が発行した雑誌『民藝 387号』には「あいぬ玉」が特集されています。アイヌ玉の研究とコレクションで知られる小林泰一氏の文章(著書からの抄約)と、日本民藝館(東京・目黒)と同氏が収集したシトキ・タマサイのコレクションの写真が掲載されており、同年3月まで日本民藝館で開催されていたアイヌ工芸の企画展に対応した特集です。同氏は1940年に札幌の骨董店で小玉2個を購入して以来、アイヌ玉を集め、玉に関する考古学的な文献を購入し研究を重ねてきたということで、アイヌ玉の名称や飾り方、玉に対する土俗信仰など大まかな概要が分かる特集となっています。

 「民藝」というのは思想家の柳宗悦(1889-1961)らが提唱した概念で、柳らはそれまで「下手もの」として美術の対象として評価されることがなかった民衆の日用雑器や雑貨に「民藝美」を見出す民芸運動を展開しました。この運動は1926年(大正15年)、「日本民芸美術館設立趣意書」の発刊により始まったとされていますが、今日まで続いています。民芸運動はアイヌの文化、工芸品を高く評価しており、日本民藝館にはシトキ・タマサイのほか、アイヌの着物や小刀(マキリ)、煙草入れなどが収蔵されています。柳はアイヌの工芸品について「ただ美しいのみならず、立派でさえあり、神秘でさえあり、その創造の力の容易ならざるものを感じる」と絶賛、積極的に蒐集していたということです。

serizawa.jpg 日本民藝館はただ単に「美しさ」という基準で収蔵品を決めていました。無銘の品が多いですが、作家の手による作品も展示しています。柳は「民藝館は、美の殿堂でありたい念願によるのでありまして、その美を民藝美にのみ限っているのではございません。ただ吾々の眼や心を惹きつけた品々の大部分を、後から省みますと、それらが著しく民衆的性質のものであることに気付きました」と説明しています。つまり、美しいものを集めたら、民衆が使う日用雑器や雑貨である「民藝」が集まってしまったので、それを保存する場所を「民藝館」と名付けたに過ぎない、ということです。

 柳の「工藝の道」に感銘を受け、民芸運動に加わった染色工芸家・芹沢介(1895-1984)も自宅の応接間の鴨居からアイヌのシトキをぶら下げて飾っており(写真右上)、民芸運動のなかでアイヌの首飾りが「美しさ」の観点から注目されていたことが分かります。

 一方で、民芸運動が始まったのと同じころ、後に大蔵大臣も務める渋沢敬三(1896-1963)らがつくったアチックミューゼアムの同人が「民具」の研究を行っていました。民芸運動の中で集められたものと同じようなもの(主に陶器類を除く「身辺卑近のモノ」)を収集し研究しましたが、民具研究で重要なのは「美しさ」ではなく、それがどこでどのように使われていたという「生活のあり方」でした。

 国立民族学博物館はアイヌ玉を数多く保管していますが、この博物館の収蔵品の多くはアチックミューゼアムから受け継いだ品々を基礎としています。現在ではアイヌ玉に限らず、台湾のとんぼ玉アフリカのとんぼ玉も数多く所蔵し日本有数のコレクションを形成しています。2001年には特別展「ラッコとガラス玉」を開き、近世の北大西洋におけるガラス玉の流通について学術的な研究成果をまとめ、当時のアイヌの交易世界について考察しています。

 「美しいものを集めて愛でる民芸運動」と「生活のあり方を道具から考察する民具研究(あるいは民俗学)」では大きく異なりますが、20世紀のアイヌ玉収集は大きくこの二つ系譜の中に位置付けることができそうです。(2007.10.3) →アイヌ玉(シトキ・タマサイ)

戦国とんぼ玉  “トンボ玉の女王”  中国河南省・洛陽金村 B.C.5-3c

sengokutonbo1 右の写真は東京国立博物館で展示されている伝中国河南省・洛陽金村出土の戦国とんぼ玉です。戦国玉には様々な意匠がありますが、これほど手の混んだ模様を持つ戦国玉は極めて珍しく、ある著名な美術史家は「中央に七曜文、周りに連珠文区画その外側を菱形円文が並んだ豪華絢爛たる意匠美を持ち、トンボ玉の女王といっても過言ではない。紺地に白、赤褐色の配色美もみごとであり、紺地と白の清楚な印象も捨てがたい」と絶賛しています。洛陽金村の戦国玉が世に知られるようになったのは1930年ごろで、由水常雄氏はその経緯を著書「火の贈りもの」で次のように述べています。

http://blog-imgs-29.fc2.com/b/e/a/bead2/sengokudama2.jpg" alt="sengokudama2.jpg" border="0"align="left" />">sengokudama2.jpg 「1929年頃、河南省の洛陽周辺の地域から、たくさんの美しい出土品が市場にではじめた。当時、河南のキリスト教管区の司教をしていたトロント大学の考古学助教授W・C・ホワイトは、これらの出土品に注目して、その出土地を追跡した。そして、ついにその遺宝の出土場所を探り当てた。そこは現在の洛陽から約20キロメートルほど北東に進んだ地域で、周の古城跡、金村であった。このようにして非公式な形で世に出て来た、これら数々の秀逸なる遺宝の中には、ガラス史上無視することのできない貴重な資料が含まれていたのである。」

 洛陽金村出土の戦国玉について、考古学者の原田淑人氏は1936年、論文で「蜻蛉玉は(中略)西域方面から伝来し、支那内地でも在留外人または一部道人などといわれた種類の人々に依って造られたものと考えられるのである」と玉の由来について自説を述べました。

sengokudama3.jpg この説を裏付けることになったのが、1938年にセリグマン(C.G.Seligman)とベック(H.C.Beck)が発表した論文「極東のガラス、その西方起源」“Far Eastern Glass: Some western origins”です。この論文では、化学分析の結果をもとに、戦国とんぼ玉はエジプトを含む西方より伝来してきたものか、あるいは、中国でそれらを模倣して作られたものか、そのいずれかであると結論づけ、戦国玉の西方起源論を展開しました。

 このセリグマンとベックの論文は、今日に至るまで戦国玉に関する最も基本的な文献とされており、後世のガラス研究家に与えた影響も多大でした。「とんぼ玉」の著者、由水氏もこの論文から受けた衝撃を次のように述べています。

 「私がトンボ玉に興味を持ち始めたのは、今から三十年余り前のこと。シルクロードの興味にとりつかれて、西アジアで作られたガラス製品が、いつ、どのルートをたどって中国や朝鮮、日本にやってきたかを調べ始めた時からであった。中国や日本で出土するトンボ玉と同似のものが、ユーラシア大陸の各地で出土している。それによって、伝播ルートや各地の拡がりがみえてきて、痛快に思っていた矢先のこと。スウェーデンの学会誌に載った、C・G・セリグマン、H・C・ベック『極東のガラス-その西方起源』(ストックホルム、1938)に接して大きなショックを受けた。(中略)私はこの戦国玉に釘付けになり、以来三十年間、トンボ玉を追いつづける運命となった」

 洛陽金村の古墓群から出土したのは戦国玉などガラス製品だけではありませんでした。たとえば、日本屈指の古美術店「壺中居」の創業者、広田不狐斎から細川侯爵家16代・細川護立氏(1883~1970)に渡った鏡「金銀錯狩猟文鏡」も出土品の一つで、これは後に国宝に指定され現在は永青文庫に収められています。

 ホワイト助教授が入手した洛陽金村出土のとんぼ玉の多くは、現在カナダのロイヤル・オンタリオ博物館に収蔵されています。日本では、出土地が明確ではないものの、おそらく洛陽金村出土であろうと伝えられている戦国玉が東京国立博物館のほか、奈良県天理市の天理参考館(下の写真は同館発行の絵葉書)で見ることができます。(2008.10.5)

sengokudama4.jpg

中国・乾隆玉と単色玉

peking glass1 右の写真は1939年当時、北京市内にあったビーズ屋の軒先に掲げられていた看板の一部で、青や水色、白、緑の単色玉が連なっています。中国では14世紀から今日に至るまで、山東省淄博(しはく)市郊外に位置する博山(Boshan)がガラス生産の一大拠点で、中国産のガラス玉の多くはこの博山で作られたと考えられています。清朝(1644-1912)初期に書かれた書物には博山のガラス生産に関する記述があり、鉄や銅、コバルトなどガラスの着色剤について書かれており、後世の研究によると博山で作られた色とりどりの単色玉が広く交易に使われてきたことが分かっています。

 博山ではガラスの原料となる良質の珪石が採れるほか、四方を山に囲まれているため燃料や坩堝の原材料が豊富だったことがガラス産業を支える要因となったと指摘されています。清朝では博山以外にも、広東省広州(Guangzhou)や紫禁城内のガラス工房・玻璃廟(1696年に康熙帝が造営)でガラスが生産されていました。

kenryudama 康熙帝に続く雍正帝(在位:1723-1735)は宝石で作られていた官吏の位階章をガラスで作るよう布告を出しており、さらに続く乾隆帝(在位:1735-1796)の時代にはガラス製造が全盛になり、多くの器や鼻煙壺が残されています。玻璃廟で作られた清朝のガラスは「乾隆ガラス」と呼ばれており、左の枕型のとんぼ玉も18世紀の中国で作られたと推定されているため「乾隆玉」と呼ばれています。

 中国産の単色玉は18~19世紀、アラスカの先住民やアイヌなど北方の交易圏にも大量にもたらされていたことが明らかになっています。看板にも使われている1センチ大の緑色のガラス玉と同様のものが、千島アイヌの首飾りに使われており、ある文献は「この特徴ある緑色のガラス玉はアラスカの南東部の先住民もたくさん持っており、ガラス玉が中国から拡散した壮大なルートと人々のつながりの複雑さとを歴史を示している」と記しています。中国産の単色玉は気泡を多く含み形もまばらで完成度が低いのが特徴です。

 20世紀には北京などの大消費地や、雲南省で暮らす少数民族の間で流通する一方、1920年代にはアメリカにも多くの単色玉が輸出されました。…続く(2007.11.26)

台湾・パイワン族 Paiwan,Taiwan

paiwan.jpg 左の写真は盛装している台湾・パイワン族の女性です。女性の首にはとんぼ玉の首飾りがかけられています。

 かつて高砂族と呼ばれた台湾の原住民は、居住地域や習慣、言語などの違いによってタイヤル(泰雅・アタヤル)族 、アミ(阿美)族、ツォウ(鄒)族 、ブヌン(布農)族、プユマ(卑南)族、ルカイ(魯凱)族、パイワン(排湾)族、ヤミ(雅美)族の9族に大きく分けられました。

 1930年代の日本統治時代に行われた調査などによると、台湾南部の山岳地帯に住むパイワン族のブツル群に属する人々が特にとんぼ玉を珍重していたそうです。パイワン族の至宝は頚飾玉と素焼の小壷で、この小壷に頚飾玉を秘蔵し、屋根裏などの人目にふれない場所に小壷を隠して置いたということです。その価値は、ある村では「首飾りの主玉の値は女頭目一人の生命と同じ」「故意に人を死に至らしめた時には、五粒の首飾り玉を以て償いとする」などと明確に決められていました。

 1920年代に台湾に渡った日本人研究者は、「パイワン族は(17世紀に東インド会社の)オランダ人と接触するはるか前、原始時代からとんぼ玉を持っていた」「台湾でつくられた形跡がなく、香料との交換品としてヨーロッパ・アラビアからもたらされた」「パイワン族のとんぼ玉は中国文化の延長ではなく、熱帯地域の土俗品の延長と見るのが合理的」「後世に中国でガラス玉の製法が発達してからは、補充品として長い間、絶えず輸入していた」などと述べています。

 これらの考察が正しかったのかどうかは、具体的にパイワン族が秘蔵していたとんぼ玉がどのようなものだったのかを検討する必要があります。下のイラストは、台湾大学が収蔵するパイワン族のとんぼ玉コレクションの一部です。

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 イラストから分かるのは、フェニキア玉や、ヴェネチアの玉まで、非常に多岐にわたる玉をパイワン族が所有していたということです。17世紀以前の玉がいつ台湾にもたらされたのかは確定できませんので、上の考察のように「原始時代から持っていた」とは即断できませんが、可能性としては十分ありうることだと思います。また、少なくとも第二次世界大戦以前に台湾でとんぼ玉がつくられていた形跡は見つかっていません。

p5.jpg また、右の写真に見られる玉のように、どこで作られたのかはっきりしない玉があります。この玉はムリムリタン(mulimulitan)と呼ばれ、もっとも貴重な玉としてネックレスでも一番中央に配置されています。

 現在、台湾の原住民がとんぼ玉を製作、販売していますが、その多くはパイワン族が長らく秘蔵してきた玉のうち、玉の起源がはっきりしないムリムリタンのようなものを台湾独自の玉として作っているようです。1970年代初頭から、政府系財団が原住民の経済的格差を解消するために新たな産業を興すことを目的とし、計画的に生産者の育成や工房の支援をおこなってきたということです。

※柳宗悦による台湾のとんぼ玉に対する言及→《民藝 76号》 台湾パイワン族頸飾り 1959.4

《民藝 76号》 台湾パイワン族頸飾り 1959.4

パイワン族「表紙に載せたのは、往年私が渡台の折りに求めた一個で、パイワン族のもの。パイワン族は、台湾の一番南端に住む民族で、台湾全島に住む七種の高砂族のうち、最も優秀な工芸品を持つ種族だと云へる。織物にも非常に美しいものがあるが、装身具にも大したものがある。私はこの種のものに就いての詳しい歴史を知らぬが材料は殆ど皆支那から渡つてきたものだと云はれる。石もあり硝子もあり、珊瑚もあり又貝もあり、練物もあるであらう。それを土人が自らの好みで、形や色や柄の取合せをしたのである。之はもとより頸飾りで、巾広の個所が半月形をなして胸の上に垂れかかる。私の見たパイワン族のアクセサリーの中で、最も美しいものの一個であった。それで私はいたくこの一個に熱心して、旅先で之を買入れるために、内地から電報為替で態々送金して貰つたことを覚えてゐる。取り出して眺める度毎に、「買つておいてよかつた」といつも感深く思ふ程、その美しさが際立つてゐる。トンボ玉を愛する人達には定めし垂涎の一個であろう。玉の数も大変な数にならう。仮に今、これより美しい頸飾りを探さうとして、万金を抱いて巴里の町々を歩き廻つたとしても、さうすぐには見つかるまい。色や形の美しさは、譬へやうもないのである。然るに未開人と呼ばれ、蛮人と蔑まれる人達の作ったものであるから、考えさせられるではないか。之は古作品だが、今の流行の品と雖も之より更に新しく且つ美しいであらうか。」(柳宗悦 『民藝 76号』 1959年)

※とんぼ玉と民芸の関係については→《民藝 387号》 あいぬ玉 1985.3

フィリピン・カリンガ族 Kalinga,Philippines

 左の写真はフィリピン・ルソン島北部の山岳地帯に住むカリンガ族の女性です。細かい模様までは判別できませんが、とんぼ玉のネックレスをしているようです。

 1930年代後半にこの地を探検した研究者によると、台湾のパイワン族のとんぼ玉と非常によく似た玉が使われており、さらに北方に住むイスネグ族も同じような玉を持っているということです。

 カリンガ族の女性が布に施す刺繍や紋様などもパイワン族と共通で、容貌も似ていることが指摘されています。

ボルネオ島・ダヤク族 Dayaks,Borneo

kayans1.jpg 左の写真はボルネオ島・中北部の山岳地帯のジャングルに住むカヤン(Kayan)族の女性です。耳に大きな真鍮製のイヤリングをし、首には何連ものとんぼ玉のネックレスをしています。

 ボルネオ島は赤道直下にある世界で3番目に大きい島で、日本の約2倍の面積があります。北西部の27%がマレーシア領(サラワク・サバ)、そこに囲まれた1%がブルネイ、東部から南西部にかけての72%がインドネシア領(カリマンタン)です。イスラム教徒でもマレー人でもないボルネオの原住民がダヤク(dayaks)族で、ダヤク族はさらに焼畑民族のカヤン族やケンヤ族、狩猟採取民族のプナン族などに分類されます。

 1910年代のボルネオ島の習俗に関する調査によると、カヤン族はボルネオ島の諸民族のなかでも特にとんぼ玉を珍重し、一部の女性は、古いビーズと現代の模倣品を見分ける能力が非常に高いということです。この理由について、戦前にボルネオを探検したある日本の研究者は「遠祖より何百年かの長きにわたって多くの玉を手に入れた経験により、玉の価値を知りえるようになったのであろう」と述べています。

 カヤン族とその周辺の民族には、右下の写真のように様々な種類のとんぼ玉が伝わっています。そのデザインから、主に16世紀以降にヴェネチアやオランダで作られたものだと推測され、様々な時代にアラブや中国の商人がもたらしたものだとされています。

kayans2.jpg それぞれの玉には名前が付けられており、価値も「健康な成人男性の奴隷一人」「水牛一頭」などと明確に決められていて、結婚の儀式に使われることが多かったようです。ネックレスや腰ひもの飾りとして用いられる一方、一つしかない貴重な玉は腕輪に使われることもあったそうです。

 前述の日本の研究者は、台湾のパイワン族が所持する玉と同じような玉をボルネオ島のカヤン族が伝承することなどを踏まえ、「台湾の諸族はボルネオ島に発祥し、パラワン島を経由して呂宋島に渡来したのであろうという見方もある」と紹介しています。確かに、台湾の原住民とカヤン族が使う言語は共にオーストロネシア語族のインドネシア語派に属することが判明していますが、言語学や考古学の今日の知見によると、オーストロネシア語族は台湾からフィリピンやインドネシアに南下したとする説が有力だそうです。

 また、同じくボルネオ島中東部のジャングルに暮らすダヤク族のうち、ケンヤ(Kenya)族も独自のビーズ細工で知られています。カヤン族はもともとカヤン川上流のアポ・カヤン地域の高原に住んでいましたが、1825~50年ごろ、ケンヤ族がこの地域に移住してきました。その後、第二次世界大戦が終わるとケンヤ族はこの地域からマハカム川の下流に移住していきました。

 カヤン族やケンヤ族の代表的なビーズ細工が、農作業中に赤ん坊を背負うための背負子です。背負子の前面にはシードビーズでダヤク族の神であるAsoの模様が編み込まれ、その上には左の写真のような熊の歯とビーズで作られた飾りが付けられ魔除けの役割を果たしていました。

 この飾りはマハカム川下流の都市で入手されたものです。熊の歯の数をすべて足した時、偶数になるのは男の子のための背負子で、奇数は女の子のものだそうです。『Manik-Manik di indonesia』によると、ストライプ模様のとんぼ玉はヴェネチア製、黄色の薄いディスク状のものはボルネオ製、小さな黄色のビーズは中国製で時代は16~17世紀のものということです。

パラオ共和国(ウドウド) Palau

palau.jpg 左の写真は1910年代、日本統治下のパラオで撮影された女性です。首には舟形のウドウド(udoudo)と呼ばれる玉がついたネックレスをしています。ウドウドは、現在でもレプリカがお土産として売られているようですが、本来はパラオ人が伝統的に使用している財貨で、『オセアニアを知る事典』によると、人生儀式のさまざな機会に、夫方集団から妻方集団に贈られるということです。そのため、女性はロレラ・ウドウド(財貨の来る道)といわれるそうです。

 パラオは1885年にスペインの植民地となり、1899年にドイツに売却されました。1914年に第一次世界大戦が始まると日本軍がパラオを占領し、第二次世界大戦の終結まで日本の委任信託領となりました。

 1941年にパラオ・コラールの南洋庁書記として働いていた作家・中島敦は小説の中で、

「ウドウドと称する勾玉の様なものがパラオ地方の貨幣であり、宝である」
「ウドウドも持つてゐない位だから、之によつて始めて購ふことの出来る妻をもてる訳がない」
「パラオ人は珠貨(ウドウド)と饗宴との交換によって結婚式を済ませ」
「莫大な珠貨(ウドウド)を職人達に支払い」

などと書いており、ウドウドがいかにパラオの人々の生活にとって重要な役割を果たしてかをうかがい知ることができます。
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 前著によると、ウドウドは以下のように分類されます。
【材質で分類】
①クルダイツ(陶土製)…a.ブラク(黄色) b.ムンガンガウ(赤色)
②ガラス製…a.多色 b.透明
【形状で分類】
①バハル(舟形)
②玉形、玉子形、その他

 最も高価なのはクルダイツのバハルで、身分の高い女性しか身に着けることができず、現在で6000米ドル以上の価値があるということです。左上の写真の女性が身に着けているのはガラス製のバハルで、右上の写真は、1899~1914年の15年間にドイツ人が本国に持ち帰ったガラス製の玉形のウドウド(とんぼ玉)です。

 これらの玉を展示している博物館の解説によると、玉はフィリピンやインドネシアからもたらされたと考えられ、ジャティム・ビーズや、ボトルから再生した単色の玉などが確認できます。

ミクロネシア連邦(ヤップ島) Yap,Micronesia

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 パラオから約480キロ北東に離れたミクロネシア連邦のヤップ島。マンタが見られるダイビングや、巨大な石の通貨が存在する事で有名ですが、ここにもかつて、右の写真に見られるようなとんぼ玉が流通していました。

 ミクロネシアの歴史はパラオの歴史と大きく重なります。1500年代にスペイン人がミクロネシアの島々に来航し、1886年に領有権を宣言。1899年にスペインは島々をドイツに売却し、1914年に第1次世界大戦が始まると日本が占領し国際連盟から委任統治が認められ、1945年の第2次世界大戦終結まで続きました。

 2001年に発行された国立民族学博物館の解説本によると、ミクロネシアにある16世紀の遺跡からイモガイで作られたビーズの埋葬品が発掘されたということです。同著によると、その後ガラスビーズは導入されましたが「とんぼ玉は導入されなかった」ということです。しかし、1899~1914年までのドイツ統治下で、本国に持ち帰られた現地資料の中に写真に見られるとんぼ玉がついた装飾ベルト(腰ひも)が含まれていました。…続く(2006.7.1)

インド・ナガ族 Nagas,India:Burma

Naga_people_headgears.jpg ナガ族とは、インド東部のナガランド、マニプール、アッサム、及び、ミャンマーの西北部の山岳地帯に暮らすナガ部族の総称で、ナガランドではコヒマを中心とするアンガミ(Angami)族、モコクチュンを中心とするアオ(Ao)族などから構成されています。ナガランドは第二次世界大戦中に日本軍によって実行されたインパール作戦の舞台となった地域で、ナガ族はかつて首狩りの習慣があったことで知られています。

 ナガ族はビーズジュエリーが発達していることも有名で、『History of Beads』によると、貝はベンガル湾、カーネリアンと真鍮製ベルはインドから、ガラス玉はインドとヴェネチアからもたらされたということです。ナガ族が過去、どのようにこれらの素材を手に入れたかは明らかではありませんが、「おそらく交易を支配していたアンガミ族のような特定の部族がもたらしたのではないか」とされています。

 ナガ族が生活する地域は、かつて存在したと言われる西南シルクロードの一部に重なります。

Nagas: Hill Peoples in Northeast India ナガ族の装飾品の解説・図録としては、『The Nagas』が秀逸です。ガラス製の装飾品は、青玉、黄色のディスクビーズ、ヴェネチアのピュマータなどが確認できます。日本語で書かれたナガ族に関する文献としては、1977~78年にインド東部ナガランドを調査した森田勇造による「秘境ナガ高地探検記」があり、王の墓に納められたビーズや装飾品を簡単に説明しています。2002年に中国・成都からミャンマー西北部・インド東部ナガランドを経由してカルカッタまで探検した高野秀行による「西南シルクロードは密林に消える」は、かつて存在した西南シルクロードと現在のナガ族エリアの関連を知ることができます。…続く(2006.6.11)

インドパシフィックビーズ Indo-Pacific Beads

 インドパシフィックビーズとは、右の写真のような『インド洋でつくられた引きガラス方法による単色のビーズ』のことで、インド南東部の遺跡アリカメドゥ(Aricamedu)で紀元前2世紀頃から作られたとされています。

 紀元1世紀の終わりか2世紀の初めごろには、ベトナムのオケオや、スリランカ、マレーシア、タイまで製作技法が伝わり、アリカメドゥの職人が移住したパパナイドゥペトゥ(Papanaidupet)では現在まで2000年以上にわたりこのビーズが作られてきました。色は不透明な赤やオレンジが一般的ですが、黄色や黒、半透明の青などもあります。

 インド洋ではこのビーズが古くから東西交易によって各地に運ばれ、東は日本、韓国、西は東アフリカの遺跡からインドパシフィックビーズが発掘されています。

 このインドパシフィックビーズはしばしば、「季節風ビーズ(Trade Wind Beads)」と呼ばれることがあります。しかし、この言葉は本来、アジアで作られ季節風貿易によって東アフリカに運ばれたビーズを示すもので、石のビーズや芯巻法で作られたとんぼ玉も含んでいます。 

 また、オレンジ色のインドパシフィックビーズがインドネシアのチモールや東ヌサ・トゥンガラ州などで家宝として大切にされていることから、現地の用語である「ムティサラ(Mutisalah、ニセ真珠)」として紹介されることもありますが、「ムティサラ」は実際には引きガラスによって作られたビーズだけでなく、中国製の芯巻ビーズ(Coil Beads)なども含んでいます。

 従って、インドパシフィックビーズという名前は、古代から連綿と作られてきた引きガラス方法のガラスビーズであることに重点を置いた呼び方で、近年、日本でも弥生時代や古墳時代の副葬品として発掘されたガラス玉がインドパシフィックビーズであるという見方が注目されています。・・・続く(2006.10.9)

ジャワ玉(ジャティム・ビーズ)

 ジャティム(Jatim)とはジャワ・ティモール(Java Timur)を縮めた略語で、ジャティム・ビーズとは、主にインドネシアのジャワ島で発掘される独特の模様を持つビーズを指します。多くは、黄・緑・茶などの単色のコアを持ち、表面にカラフルな小円や線模様が施されており、その意匠は西アジアのモザイク芯玉の影響を強く受けているとされています。
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 ジャティム・ビーズの中でも、羽根模様(主に青・白の2色か、青・白・赤・黄の4色)を持ったものは、特にManik pelangi(Rainbow beads、プランギ、右の写真)と呼ばれ、他にもManik itik(Duck Beads)やManik burung(Bird Beads、マニックブルン)などと呼ばれるものがあります。

 これらのジャティム・ビーズは、しばしば「マジャパヒト・ビーズ(Majapahit beads)」と称されることもありますが、『MANIK-MANIK di Indonesia (BEADS in Indonesia)』によると、この名称は骨董商が親しみやすく分かりやすい名前をつけただけで、実際には13-16世紀に栄えたマジャパヒト王国の遺跡からは一切見つかっていないということです。「マジャパヒト・ビーズ」の名称はL.S.Dubinによって『History of Beads』の中で紹介されたため(例えば巻末のビーズ年表903番など)、誤って広まってしまったということです。

 『Manik-』によると、ジャティム・ビーズは発掘調査の結果などから、300年ごろから製作が開始され遅くとも900年ごろまでにジャワ島東部で作られ、現在、発掘されるのもこの地域にかたよっているということです。・・・続く(2006.4.17)

ニューギニア玉(New Guinea beads)

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 右の写真は、ニューギニア島西部、インドネシア・パプア州(かつてのイリアンジャヤ州)に伝わるとんぼ玉です。不透明な黄色のメロン玉で、ずっしりとした重さがあります。

『Manic-Manic di indonesia』や『Collectible Beads』によると、おそらく17~19世紀に中国で作られこの島までもたらされたということですが、中国ではこの玉はほとんど発見されておらず、製作地についての正確な情報はありません。 乾隆ガラスの伝世品と質感が似ており、時代的、距離的にも近いため中国製と推測されているようです。

 結婚の際に使われたとされており、ある貨幣コレクターはニューギニア島の北西岸にあるチェンドラワシ(ヘールフィンク)湾地域や北岸のフンボルト湾地域でこの玉を大量に収集したということです。(2007.5.5)

【東南アジア(大陸部の遺跡)】

 インドシナとは、インドと中国に挟まれているベトナム・ラオス・カンボジアの3カ国に加え、タイ・ミャンマー両国のマレー半島部分を除く地域で、この半島にあるバンチェン(タイ)・ジャール平原(ラオス)・サーフィン(ベトナム中東部)・オケオ(ベトナム南部)などの古代遺跡から、多くのガラス玉・とんぼ玉が見つかりました。

 1960年ごろから本格的に調査されたバンチェン遺跡及びその周辺の遺跡からはインドパシフィックビーズに加え、この地域独特の「バンチェン・ビーズ」と呼ばれる半透明の濃紺のビーズが数多く発掘され注目を集めました。ジャール平原やサーフィン、オケオは主に1945年ごろまでに、宗主国であったフランスの考古学者らによって発見・研究され、地中海域・ローマのとんぼ玉が数多く発掘されたことが報告されています。
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【とんぼ玉とビーズの世界史】
人類最古のビーズ(10~9万年前 )  古代エジプト・隕石のビーズ(B.C.3000年頃)   宝貝のビーズ(B.C.1000年頃~)   17世紀のとんぼ玉   20世紀のとんぼ玉

【重層貼眼玉】  
フェニキア玉   ケルト玉  ペルセポリス型  イラン・ガレクティ1号丘5号墓  ペルシアの瑠璃玉

【古代ローマ】
労働者のビーズ  壺型とんぼ玉  帯状モザイク玉

【ヨーロッパ・アフリカのとんぼ玉】
ベネチア玉  エチオピアンチェリー  ロシアンブルー  キッファビーズ  カメルーン  ベルベル人

【日本・中国のとんぼ玉】
江戸とんぼ玉  かんざし  和泉蜻蛉玉(大阪)  アイヌ玉(シトキ・タマサイ)  《民藝 387号》  戦国とんぼ玉  乾隆玉と単色玉

【アジア・オセアニアの諸民族】
台湾・パイワン族(排灣族)  《民藝 76号》  ボルネオ島・ダヤク族  パラオ共和国(ウドウド)  ミクロネシア連邦(ヤップ島)  インド・ナガ族

【アジアのとんぼ玉】
インド・バラナシ  インドパシフィックビーズ  ジャワ・ジャティムビーズ  ニューギニアビーズ

【東南アジアの遺跡】
タイ・バンチェン  ベトナム・サーフィン  ベトナム・オケオ  ラオス・ジャール平原

【コレクション】
芹沢銈介コレクション  平山郁夫コレクション  川田順造コレクション  とんぼ玉美術博物館コレクション
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