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とんぼ玉とは

とんぼ玉とんぼ玉とは模様があり穴のあいているガラス玉(glass beads)のこと。蜻蛉玉。 模様をトンボの複眼に見立てたことからその名がつき、江戸時代には模様によって「蜻蛉玉」「筋玉」「更紗玉」などと呼び分けられていました。当サイトでは、現代のとんぼ玉ではなく、古代から近世にかけてのアンティクビーズ、トレードビーズ、または古代ガラスについて主に紹介しています。現在、下記のテーマについての記事を公開しています。当サイトへの連絡は、最下部のフォームからお願いします。


とんぼ玉【とんぼ玉の世界史】人類最古のビーズ 宝貝のビーズ 17世紀のとんぼ玉 20世紀のとんぼ玉 【重層貼眼玉】フェニキア玉 ケルト玉 ペルセポリス型 イラン・ガレクティ1号丘5号墓 ペルシアの瑠璃玉 【古代ローマ】労働者のビーズ 壺型とんぼ玉 帯状モザイク玉 【ヨーロッパ・アフリカのとんぼ玉】ベネチア玉 エチオピアンチェリー ロシアンブルー キッファビーズ カメルーン ベルベル人 【日本・中国のとんぼ玉】江戸とんぼ玉 かんざし 和泉蜻蛉玉(大阪) アイヌ玉(シトキ・タマサイ) 《民藝 387号》戦国とんぼ玉 乾隆玉と単色玉 【アジア・オセアニアの諸民族】台湾・パイワン族(排灣族) 《民藝 76号》 ボルネオ島・ダヤク族 パラオ共和国(ウドウド) ミクロネシア連邦(ヤップ島) インド・ナガ族 【アジアのとんぼ玉】インド・バラナシ インドパシフィックビーズ ジャワ・ジャティムビーズ ニューギニアビーズ 【東南アジアの遺跡】タイ・バンチェン ベトナム・サーフィン ベトナム・オケオ ラオス・ジャール平原 【コレクション】芹沢銈介コレクション 平山郁夫コレクション 川田順造コレクション
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人類最古のビーズ 10~9万年前

shell.jpg 2006年6月23日付米科学誌サイエンスによると、英ロンドン大などの国際研究チームが、9~10万年前に作られたとみられる人類最古の装飾品となる貝殻のビーズ3個を発見しました。大きさは約1.5~2センチで、 Nassariusという海の軟体動物がつくり出した小さな巻き貝に石器で穴を開け、植物のひもなどを通してネックレスかブレスレットにしていたとみられるそうです。

 3つのうち2つ(写真上)はイスラエル北部、ハイファ南方のカルメル(Carmel)山の斜面にあるスフール(Skhul)洞窟で1930年代初頭に見つかり、ロンドン自然史博物館に収蔵されていました。残る1つ(写真下)はアルジェリアのOued Djebbanaの遺跡で1940年代終盤に発掘され、パリ人類博物館に収蔵されていました。

 「穴が同じ位置に自然に開く可能性は1/1000以下で非常に低く、内陸の遺跡まで意図的に運ばれた」という事です。同様のビーズはこれまで、南アフリカのブロンボス洞窟から約7万5000年前のものが41個見つかっており、今回はこれらより約2万5千年古いということです。

宝貝のビーズ・貝貨 B.C.1000年頃~

sanixingdui1.jpg 1986年、中国四川省広漢市の西南にある三星堆遺跡に2つの祭祀坑が見つかり、青銅器や玉器、象牙など大量の文物が発掘されました。黄金のマスクをつけた青銅の仮面(左の写真)が有名ですが、紀元前約1000年ごろのものとみられる祭祀坑からはからは約4700個の宝貝(タカラガイ、子安貝)も見つかりました。

 この時代の宝貝には穴があけられたり表面が削り取られたりして紐が通されており、世界でもっとも早い時期の貨幣(貝貨)として、あるいは財宝としてつかわれていました。紐に通された宝貝は『朋』という単位で数えられており、宝貝は3000年前から現代まで連綿と人類によって加工され、利用されてきたビーズということができます。

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フェニキア玉 B.C.500年頃~

20061103035510.jpg 黎明期(紀元前2000年紀)のガラスは2つの川、すなわちナイル川とチグリス・ユーフラテス川の河畔に成立して発展しましたが、紀元前1000年紀になると、ガラス発展の中心地は地中海を取りまく地域へと移っていきました。なかでも、地中海東海岸に位置するフェニキアのシドンはガラス生産の中心地として発展し、フェニキアや植民地カルタゴでは右の写真のような重層貼眼玉やコアガラス、人頭とんぼ玉が生産され輸出されました。重層貼眼玉は紀元5~4世紀ごろに作られていたとみられていますが、現在でも人頭とんぼ玉とともに、大英博物館やルーブル美術館などで見ることが出来ます。

 ローマ時代の学者、プリニウスは紀元前1世紀、『博物誌』でガラスの起源はフェニキアであると述べています。『こういう話がある。天然ソーダを商う何人かの商人たちの船がその浜〔フェニキアの海岸〕にはいって来た。そして食事の用意をするために彼らは岸に沿って散らばった。しかし彼らの大鍋を支えるのに適当な石がすぐには見つからなかったので、彼ら積荷の中から取り出したソーダの塊の上にそれをのせた。このソーダの塊が熱せられてその浜の砂と十分に混ざったとき、ある見たことのない半透明な液が何本もの筋をなして流れ出た。そしてこれがガラスの起源だという。』

 フェニキアのガラスよりも、エジプトやメソポタミアにおけるガラスの生産のほうが早い時期に行われたことは分かっていますが、ある科学者は実際にこの伝説を試し、この方法でもガラスが作れることがわかりました。1940年代に日本で書かれたガラスの概説書は『これ迄いろいろな説がプリーニー〔プリニウスのこと〕の説を批判してをりましたがアメリカでモンローという科學者その書物の内容について細々と傳説の通りに實験を致しました。それは今から14、5年前のことですが、モンローは砂(珪砂)と曹達〔ソーダ〕を混合して、その上に薪をのせ、火を點じて2時間後、灰の下からドロドロに融けたガラスを取出しました。次に、硝石と砂でも同じような實験の結果、ガラスが出来たとの報告をしてをります』と紹介しています。

 フェニキアのとんぼ玉のなかでも、特に右上の写真のような重層貼眼玉は世界中にもたらされ、ヨーロッパではケルト人の間で流通し(ケルト玉)、中東ではアケメネス朝ペルシャのペルセポリス、同じくアケメネス朝のイラン・ギーラーン州ガレクティ、中国・曾候乙墓などにまで到達しました。特に戦国春秋時代の中国ではフェニキア・オリジナル(一部エジプト)のものに加え、現地で意匠をまねた玉(戦国とんぼ玉)がつくられるようなったことが分かっています。

ペルセポリス (アケメネス朝ペルシャ) B.C.550~B.C.330年頃

phoenicia.jpg 西はエジプト、東はインダス川流域まで支配したアケメネス朝ペルシア(B.C.550-B.C.330)の都ペルセポリスから左の写真のような白い重層貼眼玉が出土しました。模様の最下層の白地を横にのばし紺色の目の象嵌が特徴で、フェニキア玉の一種と考えられており「ペルセポリス型」と呼ばれています。ペルセポリスにはフェニキアを始めとする多くの植民地から朝貢品が届けられましたが、紀元前330年にマケドニアのアレクサンドロス大王の略奪・炎上に遭い、遺物はほとんど残っていません。しかし、宝物庫跡からは大理石彫刻やラピスラズリの壺、アラバスター製容器などが出土し、ペルセポリス型重層貼眼玉もここから発掘されました。

イラン・ガレクティ1号丘5号墓 (アケメネス朝ペルシャ) B.C.500~400年頃

ガレクティ 1964年、東京大学イラク・イラン遺跡調査団(団長:江上波夫、団員:深井晋司ら)がカスピ海の南に位置するイラン・ギーラーン州のデーラマン盆地・ガレクティの遺跡を発掘し、1号丘5号墓から多数の重層貼眼玉(写真左)を発見しました。典型的なフェニキア玉で、墓の年代は紀元前5世紀ごろ、アケメネス朝時代と考えられています。埋葬されていたのは熟年男性ですが、身分は分かっていないということです。副葬品は他にも銅の腕輪、縞メノウの垂飾、金や銅の耳飾り、エジプト産とみられるファイアンスのウジャドの眼、下の写真のような細長いとんぼ玉も出土しました。これらの出土品の半分は当時のイラン国内法に基づき調査団が持ち帰り、残り半分はテヘランの博物館が収蔵しているとのことです。

ガレクティ デーラマン盆地で発掘されたこれらアケメネス朝のとんぼ玉や、他の遺跡で見つかったササン朝のガラス腕がどこで作られたのかは定かではありませんが、少なくともこの盆地で作られたものではなさそうです。この地域を実際に訪れたある日本の考古学者は、ガラス製造の工房跡が見つかっていないことや、原料になるフリットや砂をどこから手に入れたのか不明であることを挙げた上で、「デーラマン地方が存外渓谷河川沿いに四通八達した交易路、商業路のターミナルだったかもしれないとは充分考えられても、シリア海辺部のシドンやエジプトデルタ地域のアレキサンドリアといった有名なガラス工房都市(中略)などと比較しても、工房はなかなか在りそうもないように見える」と記しています。

 やはり、重層貼眼玉は当時アケメネス朝が影響下においていたフェニキアからもたらされた可能性が高いと思われます。(2007.8.5)

ペルシアの瑠璃玉 深井晋司・高橋敏 淡交社 (1986/02)

アマゾンへ 1985年2月、東京大学東洋文化研究所の深井晋司教授が亡くなりました。古代ペルシャ美術、特にガラスについての世界的権威だった深井教授は同年3月に研究所を定年退職する予定で、前年の8月から本著を出版するべく準備していたということです。没後、関係者によって刊行された本著は、全238ページの大型本で、おそらく日本で発行されたとんぼ玉をテーマにした本のなかで最も豪華で迫力のある1冊に違いありません。豊富な図版は全てカラーで非常に鮮明、解説は田辺勝美氏や谷一尚氏が執筆。主だったとんぼ玉は原寸大の実測展開図まで掲載されています。

アマゾンへ 図版で取り上げられているとんぼ玉は「ペルシアすなわちイランで出土もしくは入手したガラス玉」であり「必ずしもイランで製作されたことを意味しない」とのことで、いわゆるフェニキア玉と呼ばれている重層貼眼玉がメインです。フェニキア人は紀元前6-4世紀にはアケメネス朝に服属しており、とんぼ玉の多くはこの間にフェニキア人の支配するレヴァント地方やカルタゴからペルシアにもたらされたと思われます。参考図版にはモザイク芯玉やローマの人面とんぼ玉も紹介されています。共著者である高橋敏氏はプロの写真家であり、クオリティの高い写真集としても評価することが出来ます。(2007.7.23)

ケルト玉(ハルシュタット文化) ~B.C.450年頃

ケルト玉 1846年、オーストリア・ザルツブルク南東の村『ハルシュタットHallstatt』にある古代墓地が発掘され、中央ヨーロッパにローマ人が到来する遙か昔、ケルト人による高度な文明が成立していたことが判明しました。紀元前800年~同450年頃に、現在のオーストリアからバルカン半島北部、フランス東部にいたるドナウ川流域を中心とする広い範囲で栄えた文化は『ハルシュタット文化』と呼ばれ、スロベニア(旧ユーゴスラビア)の都市、ノヴォ・メストNovo Mesto近郊の町Brezje pri Trebelnemにあるハルシュタット文化期の遺跡からはフェニキア玉(写真右)が見つかりました。

ケルト玉  ケルト語で「製塩所の場所」という意味であるハルシュタットには岩塩の採れる鉱山があり、ケルト人はこの地で塩をつくり交易に行い、紀元前6~5世紀にはハルシュタット以外の場所でも盛んに地中海地方と交易を行っていたことが判明しています。とんぼ玉は主にフェニキア人によってもたらされたと考えられており、左の写真(プラハ国立博物館蔵)のようなとんぼ玉はケルト玉と呼ばれています。

 左下の写真もノヴォ・メストNovo Mesto近郊のSmarjetaにある遺跡から出土したガラス玉とコアガラスの破片で、右下は同じくスロベニアのグロースプリェGrosuplje近郊の古墳から出土したものです。(ウィーン自然史博物館Naturhistorisches Museum Wien蔵)

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 紀元前600年頃にマッサリア(現在のマルセイユ)にギリシア植民市が形成され、地中海沿岸からローヌ川をさかのぼる新たな交易ルートができると次第にハルシュタットは廃れていき、紀元前450年頃からは、あらたに『ラ・テーヌ(スイス・ヌシャテル湖北端の村)文化』が興隆していきました。

【古代ローマ】ミルフィオリ

roman mil1 紀元前1世紀から紀元1世紀にかけ、ローマ帝国ではミルフィオリ、リボンガラス、ゴールドバンドガラスなどのきらびやかで豪華なモザイクガラスが流行しました。大量生産が可能な吹きガラスが普及する前のことで、限られた数しかつくることができないモザイクガラスは非常に貴重で贅沢なものでした。金太郎飴の要領で、溶かした色ガラスから小さな花模様のチップをつくり、それらを平らに溶着して成型することで容器類(皿、碗、杯など)に仕上げました。この時代のミルフィオリガラスは右の写真のように破片となってしまっていることが多いのですが、完全な形で、あるいは修復可能な形で出土することも少なくありません。

roman mil モザイクガラスの技法は遅くとも紀元前3世紀ごろ、エジプト・プトレマイオス朝の時代のガラス職人によって確立され、帝政ローマ期には主にイタリアの工房でミルフィオリが製作されたと考えられています。左の写真は2009年4月、ロンドン博物館によって公開されたミルフィオリ碗で、ロンドンの墓地から細かく割れた状態で発見されたものを復元したものです。

 ローマ帝国の分裂後、ミルフィオリの技術はほぼ断絶してしましますが、近世になるとベネチアで復活し、この技法を使ったトレードビーズが大量にアフリカへの貿易品として生産・輸出されました。(2010.2.1)

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【古代ローマ】 労働者のビーズ

ベス 2008年6月、ローマ・フィウミチーノ空港近くで見つかった1世紀後半から2世紀ごろの墓地に、重労働に従事していた労働者(または奴隷)が多数、埋葬されていたことが分かりました。発見された人骨約300体のうち約7割が成人の男性で、背骨に損傷が見られることから、港湾から荷揚げされた重い荷物や塩の袋などを背負って運んでいた可能性があるということです。また、子どもの墓からは、黄金のイヤリングや銅の指輪、ファイアンスのベス像、琥珀や貝のビーズでつくられたネックレス(右の写真)が出土しました。帝政ローマ期の特権階級ではなく、庶民の生活を知る手掛かりとなる貴重な資料で、特に民間で信仰されていたエジプトの魔除けの神様であるベスが埋葬されていたことは、非常におもしろい発見です。(2008.6.15)

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【古代ローマ】 帯状モザイク玉

roman beads 右の写真は帯状モザイク三角玉と呼ばれるローマ時代を代表するとんぼ玉の一つです。写真の玉は銀化が進んでおり判別が困難ですが、帯は鮮やかな青色であることが多いのがこのとんぼ玉の特徴です。『世界のとんぼ玉』では人面とんぼ玉やゴールドバンド玉、ゴールドサンドイッチ玉と並んで掲載されており、同書には佐野公代コレクションのネックレスなどが紹介されています。このとんぼ玉は縞メノウを模したデザインとされ、現在のイランで発掘されることが多いとのことです。イラン高原出土のとんぼ玉をまとめた『ペルシアの瑠璃玉』にも同様のとんぼ玉が掲載されています。(2008.08.25 関連記事:壺型とんぼ玉労働者のビーズ)

【古代ローマ】 壷型とんぼ玉

 右の写真は帝政ローマ期(紀元前27年~紀元後395年)に地中海東岸、現在のレバノン、イスラエル、シリア、ヨルダン付近で製作され流通していた容器型とんぼ玉です。取っ手が一つあり、網のようなジグザグの透かし模様が胴体部分を包んでいるのが特徴で、口から内部が空洞になっているタイプと、ふさがっているタイプがあるようです。写真は空洞タイプで全長約2.2センチ、空洞部分は口から約1.2センチです。日本では類品が、横浜ユーラシア文化館や羽原コレクションに収蔵されています。


ルーブル美術館のある研究員の解説によると、空洞タイプは
 ①エルサレム
 ②ヨルダン川西岸のサマリア
 ③アンマンの北約110キロの都市ウンム・ケイス(旧ガダラ)
などから出土し、ふさがっているタイプはイスラエル北部の都市ナザレで出土しているとのことです。古代ギリシャで葬祭用の供物としてつかわれた陶器製の香油瓶『レキュトス』のような形をしていますが、ローマ期には他にも左の写真の様な色々な形の壷をかたどった思われるとんぼ玉が発掘されています。(2007.6.1)

芹沢銈介コレクション

 民芸運動に深い影響を受け、自らも世界各地の民芸品を蒐集した染色工芸家・芹沢銈介氏(せりざわ・けいすけ 1895-1984年)。芹沢氏のコレクションには、民芸運動を始めた柳宗悦らがほとんど蒐集しなかったアフリカや南アメリカの民芸品が含まれています。アフリカや世界各地のとんぼ玉もあり、それぞれの地域、時代を代表する逸品を、一粒ずつではなくまとまった連(ネックレス)の状態で収められているのがコレクションの特徴になっています。芹沢氏は時代や民族、地域ごとに異なるとんぼ玉の配列や、連が持つ力強さ、存在感に惹かれていたのだと想像できます。

 【過去記事】芹沢氏とアイヌ玉については→《民藝 387号》あいぬ玉 1985.3

 右上の写真は東北福祉大の芹沢銈介美術工芸館発行『芹沢銈介コレクション』の1ページですが、シェブロン玉やキングビーズ、六角平面のミルフィオリなど見事です。また、1979年にサントリー美術館で開かれた『芹沢銈介の蒐集 その一部展示』の図録(写真左)には典型的なバンチェン玉台湾とんぼ玉ナガ族の連が掲載されています。図録のキャプションには「ネックレス アフリカ各地」あるいは「装身具」と記されているだけで、詳しい出所は書かれていません。

 これは芹沢氏が美術商からモノを買うときに出自をまったく気にせず聞かなかったことに関係しているかもしれません。芹沢氏に「約十年間、三ヶ月に一度はお訪ねし、持ち込んだ物も何とかほとんど買ってもらえるようにはなった」という古美術坂田(東京・目白)の坂田和實氏によると、「芹沢さんは品物の肩書き、つまりどの時代に、どこの国で、何に使ったかというような出自を一切問わなかった」ということです。坂田氏は初めて品物を持ち込んだときの様子を次のように述べています。

ひとりよがりのものさし 「二十六年前、いかにも芹沢さんの好みそうなエチオピアの木製十字架を手に入れたので、骨董界の伝説的な人物に会える良いチャンスだと思い、紹介もなしに直接電話をしてみると、電話口に出てきたのは御本人で「ハイハイ、どうぞ持ってきて見せて下さい」と拍子抜けしそうな返事。こちらはまだ若かったし、最初の訪問ということでついつい力も入って、品物をゴッソリ持ってお伺いした。挨拶もそこそこに、さっそく品物を取り出すやいなや、くだんの十字架一点だけを取り上げて「これは良い、嬉しいネ、有難う、じゃ」と他の品物には眼もくれず、サッサと奥の部屋へ入られたのには参った、参った。せっかくこれだけの量を持ってきたのにとは思ってみても、一瞬の眼の勝負、とにかく説明が全然効かない、価格の安さが効かない、情も効かないのないないづくし。」(坂田和實「ひとりよがりのものさし」新潮社 pp.58-59)

 東北福祉大の図録によると、芹沢氏がアフリカの原始美術に強く惹かれはじめたのは1966年、71歳になって初めてヨーロッパ旅行をしたときからということです。それまでも暇さえあれば古美術・骨董店をめぐり民芸品を蒐集していましたが、アフリカの収集品は晩年になってから集められたものが多いという事です。

 芹沢氏の長男で考古学者の長介氏は「85歳を過ぎてからの銈介は、小川弘氏(編注:東京かんかん)がアフリカに渡って集めて来られたさまざまの木工品、衣類、マスク、家具、ビーズ、大壷等々にかこまれ、(中略)幸せをしみじみと味わっていたに違いない」と述べています。

芸術新潮 2009年 04月号 [雑誌] 民芸運動を担った陶芸家の濱田庄司は「自分の目で自分らしく物を見ることができれば、これは一つの創作といっていい」と述べていますが、芹沢氏は柳らとは違いアフリカのモノを積極的に取り込むことで独自のコレクションを作り上げました。古美術評論家の青柳恵介氏は芹沢氏の蒐集についてこう述べています。「洗練された美の静謐を破る雑多なもののエネルギーを芹沢は求めたのであろうか。出来上がってしまった茶の湯の美意識、民藝の美意識を、アフリカやインカの工芸の原始性を梃子にして、もう一つ先に転がしてみたいという願いが芹沢銈介のコレクションから見てとれる。」。確立された美意識をもう一つ先へ。この芹沢氏が創造した蒐集は一つの美の基準となり、次の世代の美術商、骨董商、コレクターに大きな影響を与えることになりました。(2009.8.1)

平山郁夫コレクション

平山郁夫コレクション 日本画家の平山郁夫氏が2009年12月2日、脳梗塞のため亡くなりました。平山氏はシルクロードに魅せられ、オリエント対して熱い情熱と深い関心を持たれていました。山梨県北杜市にある平山郁夫シルクロード美術館には、素晴らしいガラスコレクションがあり、それは山川出版社の「シルクロードのガラス」にまとめられています。

シルクロードのガラス―時空を超えた魅惑の輝き (MUSAEA JAPONICA) この本で平山氏は古代ガラスについて次のように述べています。「メソポタミアや古代エジプトでは多様な美しいガラスを作り出した。このガラスは王侯クラスの人たちが、各人のステイタスとして身の回りで用い、身につけていたようだ。紀元前2000年紀より、さまざまなガラスの製法が考案され、さまざまな用途なものが作られている。さらに時代が進み、古代ローマ期に到ると、ローマングラスとして美しく造形的であり、芸術性の高いガラス器を遺している。また遺跡から出土したガラス器は、銀化による不思議な時代色を帯び、さらに付加価値として眼を楽しませてくれるのである」

 平山コレクションは、MIHO MUSEUMと並び、日本最高峰のコレクションだと思います。とんぼ玉はもちろん、器や小瓶など、シルクロードの始まりから終わりまでの地域と時代を網羅したものです。この本から“時空を超えた魅惑の輝き”が伝わってきます。(2009.12.5)

川田順造コレクション

 レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の翻訳などで知られる文化人類学者、川田順造氏。西アフリカ内陸でのフィールドワークの傍ら、とんぼ玉を蒐集してきたことで知られています。コレクションの一部は由水常雄氏「とんぼ玉」に掲載されているほか、古美術雑誌や著作集でもコレクションについて触れています。

 1976年9月号の「小さな蕾」には「アフリカのトンボ玉」と題した文章が掲載され(写真)、1995年に発行された著作集「アフリカの心とかたち」に再録されています。76年当時の文章と、95年の再録時の文章には若干の違いがあり、その手直し、追加部分からは約20年間のコレクションの歩みを伺い知ることができます。

 例えば、76年には「折にふれてぽつりぽつり買っていたのが、いつのまにか小さなボール箱にいくつかたまった」とあるのが、95年には「いつのまにかボール箱いくつかにたまった」とあり、「小さな」が省かれています。20年間とんぼ玉を集め続け、その量も格段に増えたのだと思います。また、追加部分として、「私のコレクションの中にも、白く風化した古代フェニキアあたりのものかと思われるガラス玉も混じっている」と珍しいとんぼ玉について特記しています。

 そして締めくくりには、「とにかく玉というものには、それを手にした人の心を、前後の見さかいなくとりこにしてしまう不思議な魅力があり、だからこんなにも世界中に散らばったのであろう。玉に見入るうちにたまに魅入られる-私もそのとりこになった一人だ」と付け足しており、とんぼ玉に魅了されてしまった思いを率直に書き綴っています。(2009.7.1)

ベネチア玉 J.F.Sick & Co.

The Bead Goes on: The Sample Card Collection With Trade Beads from the Company J.f. Sick & Co. in the Tropenmuseum, Amsterdam 主にアフリカとの貿易のためにベネチアで作られたとんぼ玉。アフリカントレードビーズ(African Trade Beads)とも呼ばれています。シェブロン、ミルフィオリ、オッキオ、ピュマータなど色、形、模様は本当に多種多様で数多くの文献がありますが、その決定版とも言える本『The Bead Goes on: The Sample Card Collection With Trade Beads from the Company J.f. Sick & Co. in the Tropenmuseum, Amsterdam』が出版されました。1910年ごろから約50年間、西アフリカにおけるとんぼ玉流通の95%を支配していたという商社『J.F.Sick & Co.』のとんぼ玉サンプルカードの写真がDVD-ROMで付いてきます。収録されているとんぼ玉の数はなんと約2万2千!。すべての玉に番号がふられていて、とんぼ玉がサンプルカードに加えられた年代も分かります。

 Sick社は1910年ごろ、ドイツ・ハンブルグに本店がオープンし、とんぼ玉の大生産地であるベネチアとチェコ・ヤブロネツに支店が開設されました。第一次大戦後、ドイツ敗戦にともない本店がロッテルダムに移転。ハンブルグは支店に格下げされました。その後、1927年に本店がアムステルダムに移転し、ロッテルダムは閉鎖。アフリカではナイジェリアに5ヵ所、ガーナに4ヵ所、カメルーンに2ヵ所、事務所が置かれ、20世紀前半の西アフリカにおけるもっとも重要なとんぼ玉卸商社としての地位を築きあけました。そして1964年にベネチア支店が閉鎖されるとき、アムステルダムの本店に保管されていたサンプルカードが、オランダ王立熱帯研究所(Royal Tropical Institute)の熱帯博物館(Tropenmuseum)に寄付され、そのカードを接写した写真を収めたのが本書のDVD-ROMです。

 海外ではこのSick Collectionがベネチア玉研究の基礎となっており、「Sick Collectionの●●番」といった形で玉の模様の特定すら行われています。この本が出版され、手軽に(値段はお手軽ではありませんが)データが入手できるようになったことから、今後は日本でもアンティークとんぼ玉の取引や研究にこのサンプルカードの番号が用いられることになるかもしれません。(2007.6.3)

ボヘミア・ロシアンブルー(Russian Blue)

 右の写真はロシアンブルーと呼ばれるボヘミア産(現在のチェコ共和国)のビーズです。主に19世紀前半に西アフリカで黒人奴隷と交換されたビーズで、アラスカなどアメリカ北西部の太平洋沿岸地域でも先住民との毛皮貿易で使われてきました。ロシアンブルーという名前は、アラスカのビーズ収集家が付けたということです。

 このビーズが作られた1800年代、ヴェネチアにはガラスの菅玉をカットする研磨機を回転させる安価なエネルギーがありませんでしたが、ボヘミアには水車を回すための豊富な水力があり、このような多面体のビーズを大量に生産することができました。ボヘミアで作られたビーズが西アフリカに運ばれたルートは、他のトレードビーズと大きな違いはないと思われますが、どのようにアメリカ北西部まで運ばれたのかについては、現在でも幾つかの説があります。

 まず、1700年代前半にロシア人・ヴェーリングがアラスカを発見して以来、毛皮貿易を仕切り、現地のロシア領を統治していたロシアの会社(Russian America Company)が、貨物列車によってヨーロッパ各地で売られていたボヘミア産のビーズを買い、シベリア鉄道でシベリアやアラスカにもたらした、という説があります。しかし、ある著名なビーズ研究家によると、ロシアンブルーはロシア人と先住民の交易場所だった遺跡からは見つかっておらず、ロシア人の交易が途絶えた後にアメリカ人やイギリス人によってもたらされたとしています。この研究家は、そもそもロシア人がロシアンブルーを扱った事実すらなく、この名前は非常に誤解を招きやすいとしています。

 一方で、アメリカ・カナダ側から流入したという説によると、1670年に設立され、現在でもカナダの老舗デパートとして有名なハドソンズ・ベイ・カンパニー(Hudson's Bay Company,HBC)が流通の拠点だったということです。ロシアンブルーなどボヘミアやヴェネチアのとんぼ玉がアラスカだけでなく、古くからHBCの商圏であった五大湖周辺の先住民の間でも流通していたことが一つの根拠となっています。

 さらに、北米の毛皮貿易の研究者によると、この説を裏付ける資料がHBCに残っており、HBCはハドソンベイビーズ(Hadson Bay Beads ホワイトハーツ、イエローハーツのこと)6つ、パドレビーズ(Padre Beads)3つ、青い透明の大きいビーズ(ロシアンブルー?)2つとビーバーの加工済みの毛皮1匹分を交換していたという事実が判明しました。

 HBCによると、HBCは1733年にカナダ・オンタリオ州のAlbany Fortという地区で、色が付いているビーズ3/4重量ポンド(約340㌘)とビーバーの毛皮1匹分を交換していたということです。ただし、そのビーズがロシアンブルーか、パドレビーズなのか、あるいはホワイトハーツなのかについては明確ではありません。1700年代前半という時期を考えると、パドレビーズである可能性が高いと思われますが、このような交易の延長で、1800年代後半にロシアンブルーが流通したと考えることができると思います。

エチオピアンチェリー (Ethiopian Cherry)

エチオピアンチェリーエチオピア地図 左の写真はエチオピアンチェリーとよばれるボヘミア(チェコ中西部)製のガラス玉。ホワイトハート、ロシアンブルーなどと並び、交易ビーズを代表する単色とんぼ玉の一種です。輝くような深い赤と、サクランボのような安定感のある丸い形が特徴で、主に19世紀以降、エチオピアなどアフリカ東部で流通していたと考えられています。

 アフリカ諸民族の装飾品をテーマにした写真集「Africa Adorned」などをみると、アフリカ西部の象牙海岸付近ではミルフィオリなど多彩なとんぼ玉が多くみられ、少し東に入りカメルーンなどではシェブロンが好まれていることが分かります。さらに東に進みスーダン、エチオピア、ケニアなどでは単色のビーズが装飾品として多く消費されてきました。アフリカ東部でもシェブロンやオッキオなどは少量流通しましたが、非常に貴重なものとして大切にされています。

色―世界の染料・顔料・画材 民族と色の文化史 このエチオピアンチェリーの魅力は、何よりその深紅の色にあります。「色―民族と色の文化史」によると、象徴的意義がとても広い赤色は、たくさんの儀式で使用され、女性の豊穣性や男性の力強さを示しているということです。また集団の結束を強めたり信仰対象の力を強くしたりする儀式にも用いられるということで、アフリカ各地ではとても大切にされています。

 ボヘミアでガラス玉作りが始まったのは17世紀。18世紀になるとヨーロッパ市場向けにビーズを輸出します。そして18世紀最後の四半世紀(1775-1800年)に、ガーネットをまねた赤いビーズを作り始めたことが知られており、このエチオピアンチェリーもその延長上に位置付けられています。(2009.6.27)

キッファビーズ(Kiffa Beads, Mauritania)

kiffa.jpgMuritaniya 左の写真は20世紀前半にモーリタニアのキッファという町でつくられたとんぼ玉で、『オールドキッファ』と呼ばれるものです。その存在は1949年、フランスの民族学者R.Maunyが報告し、1980年代に、アメリカのコレクターがキッファビーズと名付けました。1980年代以降、キッファビーズはアメリカのビーズ研究の大きなテーマになり、多くの研究者やコレクターがこのビーズを求めてモーリタニアに旅立ちました。

 ヴェネチアやオランダのとんぼ玉を粉砕したガラスを原料にしてつくられており、技術的にも優れ芸術的価値が高く評価されています。粉のガラスを比較的低温で成型しているため、もろくなってしまい、完全な形で残っている物は数少ないということです。独自の模様ですが、もともとは古代のイスラム玉をまねてつくられたという説があります。コレクターの人気が高いため、近年では現地の女性グループが再びつくり出しましたが、質は古い物に及ばず『ニューキッファ』と呼ばれ古いものとは区別されています。また、最近ではインドネシアなどでもガラスや他の素材で模倣品がつくられています。(2006.11.22)

アフリカ・カメルーン Semi-Bantu,Cameroon

cameroon0カメルーン地図 左の写真はアフリカ・カメルーン西部のバメンダ高原(グラスフィールド)に住むバンツー系部族の女性と赤ん坊です。1900年代前半、フランス人によって撮影された写真で、母親の乳を吸う赤ん坊の首には立派なシェブロン玉の首飾りが確認できます。バンツー系部族はバミレケ族、バムン族、ティカール族などに分かれますが、バミレケ族のシェブロン玉の首飾りは日本の国立民族学博物館にも収蔵されています。

cameroon_beads.jpg バメンダ高原には首長国が200以上あり、それぞれの国は川筋や尾根道でつながり交易が行われてきたということです。高原の南に位置しギニア湾に面する港町ドゥアラDoualaには、1900年代前半、ベネチアやボヘミアのとんぼ玉を扱う商社『J.F.Sick & Co.』の事務所が開設されており、交易を通してこの高原の部族までシェブロン玉がもたらされたと考えられます。Sick社の拠点から比較的近かったためか、首飾りにシェブロン玉が豊富に使われているのが特徴です。(2007.8.17)
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