町人が文化の中心となって芸術、娯楽、経済、物流が非常に活発になった江戸時代(1603-1867年)。町人の間では「印籠・巾着」「煙草入れ」「簪・櫛」などの提物(さげもの)や髪飾りが流行し、玉の需要が大きく増加しました。明治時代に書かれた
黒川真頼著『工芸志料』(1878年)などによると、徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長年間(1596-1615年)に印籠や巾着を腰につけるのが広まり始め、その後寛文年間(1661-73年)に煙草入れが流行、玉はこれら提物の緒締(おじめ)として需要が急増しました。江戸後期になると、印籠は上級武士や富裕な町人だけではなく広く町民の間でも使われるようになり、文化年間(1804-18)には女性が簪や櫛に玉をつけるのが江戸・大坂・京都の三都をはじめ各地で流行したということです。
玉の材質は水晶、瑪瑙、珊瑚、象牙、貴石、そしてガラスなど多岐にわたり、模様や形も様々な工夫がなされました。庶民があまりにも玉に財産を費やすため、1838年には徳川家慶が櫛や簪、煙草入れなどの翫物に珊瑚玉などを豪華な装飾を施すことを禁じるお触れを出したことが
『徳川禁令考』などの資料からうかがい知ることができます。
江戸時代には、玉の名前が材質や模様によって細かく分類されました。1781年に大阪の古物商・
稲葉新右衛門によって書かれた
『装剣奇賞』は、同じガラス玉(吹きもの)でも、「筋玉、雁木玉、トンボ玉、印花玉、糸屑玉」などと模様によって区別し、「トンボ玉」を「是も吹きものなり。但、地は虫の巣の如き薬にて色は浅黄萌黄などあり、紋は椰子の紋、又は散り桜のごとき花見えたり」と定義しました。(装劍奇賞の実物は
『根付のききて』さんのサイトで見ることができます)
由水常雄著『
トンボ玉』によると、江戸時代にとんぼ玉の製作が最も盛んだったのは大坂で、「今日残っている江戸トンボ玉の大半は大坂の玉造や泉州で作られたものと考えていいであろう」と述べています。大坂の職人は技術も最も優れていたようで、前出の『工芸志料』は「ガンギ玉及びトンボウ玉を模造することは、其の始め大坂の工人某の発明する所に出づるなり」としています。
江戸時代、国内でガラスが作られるようになったのは長崎が最初だとされています。1573年に肥前大村藩主・大村理専が長崎にオランダ人との貿易港を開設し、その後しばらくしてガラス玉をはじめとするガラス製法が渡来したと思われます。記録としては元和年間(1615-23年)に長崎商人・
浜田弥兵衛が国外に渡航し眼鏡製作方法を学び、帰国後に
生島藤七にその技法を伝えたことが
西川如見著『長崎夜話草』(1720年)に記されています。生島藤七はさらに国内で南蛮人ガラス工からも技術を学び、長崎で念珠・スダレなどをつくり『多麻也(たまや)』と呼ばれるようになったそうです。
寛永年間(1624-44年)には中国からガラス工が長崎に渡来、ガラス玉の技術を伝えました。『工芸志料』は「長崎の工人、或いは南蛮法に従うものあり、或いは支那法に従う者あり、或いは南蛮法と支那法とを混淆して伝うるも者あり」と説明しています。長崎のガラス製造技術はその後、大坂や江戸に伝えられたということです。
杉江重誠編『日本ガラス工業史』(1949年)の「第二章 徳川時代のガラス渡来と発達」によると、長崎から大坂にガラス製造が伝えられたのは宝暦年間(1751-64)、長崎商人・
播磨屋清兵衛が大坂に移り、北区天神橋筋に工場を設けてカンザシや盃などをつくり始めたのが最初で、同著は「大阪でガラスが製造されたのはこれが最初である」と言い切っています。しかし、1732年に
三宅也来によって書かれた
『萬金産業袋』には既に「中頃摂州大阪に名人出来、右のとんぼ玉をつくり出せし」という記述があり、播磨屋清兵衛の来坂よりも前にとんぼ玉が大坂で作られていたことが分かります。現在では少なくとも正徳年間(1711-16年)には長崎のガラス製法が江戸や大坂に伝わっていたとされており、さらに大坂のとんぼ玉づくりについては長崎の玉づくりとはルーツを異にするという見方がでています。
例えば、
神功皇后(170-269年)の時代に高麗からガラス玉製法が伝わり、それが明治に到るまで密かに連綿と続けられていた、という説があります。おなじ『日本ガラス工業史』でも「第一四章 その他のガラス工業の発達」では、大坂・泉州のとんぼ玉づくりについて「神功皇后が三韓征伐から帰らるる時、高麗から玉を製作する技術者をつれ帰り、浪速朝廷の地に近い堺市で技法を日本人に伝授せしめたのが、その嚆矢であるといい伝えられている。明治初年頃にもこの地にガラス玉製作の技法が残ってい」たと述べています。この説と一部符合するのが、7世紀後半の奈良・飛鳥池遺跡から見つかったガラス坩堝やガラス玉鋳型で、日本でも古くからガラス玉が生産されていたことが確認できます。
また、大坂のガラス玉には限定されていませんが、12世紀ごろに中国・宋からガラス製法技術が伝わったとする見方もあります。
中山公男監修『世界ガラス工芸史』(2000年)によると、「近世日本のガラス組成は、鉛の含有量が45%程度の、高鉛ガラスである。当時ヨーロッパで作られていたガラスは主としてアルカリ石灰ガラスで系で、原料調合法が日本の物と全く異なっている。金属鉛を溶かし、石粉を附着させ、そののち硝石も加えるというもので、このような製法は、中国宋時代の方法と類似していることから、12世紀頃に中国から伝来し、明治に到るまで秘伝として伝えられたと思われる」と述べています。江戸時代の「トンボ玉」という名称と、中国の乾隆玉に影響を受けたと見られるその意匠から、江戸とんぼ玉と中国との関係は深いとみられ、大坂の江戸とんぼ玉のルーツを中国に求めることは自然だと思われます。
その他にも、長崎で行われていた玉づくりの製法と、大坂・和泉での玉つくりの方法が大きく異なるという指摘もあります。
各務鑛三著『硝子の生長』(1943年)は、昭和初期に泉州・信太村で盛んにされていた玉づくりと、江戸後期の『長崎古今集覧名勝図絵』にある長崎での玉づくりを比較し、長崎の方がオートマチックな設備を採用しており遙かに能率的だとしています。
いずれにせよ、大坂の玉造や泉州で盛んに作られていたとんぼ玉の起源ははっきりとは分かりませんが、長崎の技術とは異なるルーツを持っていると考えるのが妥当のようです。ガラス研究家のなかには、江戸時代のガラス製造は長崎から始まったという説を否定し、大坂が製造開始の地であるとする見方すら存在しています。